森井聖大ファンクラブ通信

    マイペース・マイワールド

    冬の乗り越え方

    今読んでいるのは、ジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』という本だ。
    著者はアメリカのジャーナリストだ。
    何故こんな世界になったのかについて詳細な分析が書いてある。
    哲学や宗教や国家の歴史を時系列で現代までを紐解く。
    いきなりある日突然パッとこうなったわけじゃないのだと納得する。
    現代の言論や表現状況について、何でだろう、ムカつくな、まいったな、と思っている方は是非とも読んでおいた方がいい。



    人道主義の強要、環境至上主義など「人を傷つけるような言葉や思想は暴力である」という考え方は、批判を罪とする。しかし知的自由とは、絶えず批判しあう姿勢の中からのみ強靭な表現・言論の自由を育てて行く。
    -amazon紹介文より






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    我慢して生きる事ー武田泰淳『ひかりごけ』を読んでー

    春がきたのか。
    こないのか。
    まだ寒いね。
    コタツに入っていたよ。
    横になって、本を読んで、過ごしていたんだ。
    なるべく立ち上がりたくなかったから。
    小便なんかもギリギリまで我慢してね。

    『ひかりごけ』を読んだよ。
    久しぶりに思考の深さを感じたな。
    表層的な思考を突き破ってたね。
    生きる核心に迫っているよ。

    船長は罪人として裁かれたんだ。
    でもね、本当は、誰にも船長を裁く権利はないんだよ。

    我慢して、食べました。
    (裁判を受けている)今も、我慢しております。
    武田泰淳『ひかりごけ』より



    船長は、人肉を、我慢して食べたんだ。
    でも、我慢して、食べない人もいたんだよ。
    同じ我慢という言葉だけどね。
    この2つの我慢には、雲泥の差があるよね。

    もし、この先の人生で、万が一『ひかりごけ』のような状況になった時にはね。
    他の人がどんな理屈を並べ立ててもね。
    もう、決めたよ。

    私、我慢して、食べるよ。

    もちろん、私が先に死んだ時は、迷わず、私を食べていいんだよ。
    生きる糧をアナタにあげるよ。








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    本に挟むモノー石川淳『六道遊行』を読んでー

    以前、ブログで書いたことがある。
    気まぐれに江國香織の短編集をブックオフで購入した際、多分どこかの主婦のヘソクリだったのだろう、ページの間に千円札が挟まっていたことがあった。
    あれから、数年後、今回、石川淳の小説を購入したら、複数のページに、毛根の皮膚まで付着している長めの毛が何本も挟まっていたのである。
    何を挟もうと個人の自由ではあるが、それにしても、この小説が変態に好まれそうな内容であったのも手伝って、どうにも気持ち悪くなった。
    女陰を通し現代と過去をタイムスリップし、ほぼ全編に渡って(ただ巨根と言いたいだけの小説ではないのかという錯覚を起こさせるほど)巨根巨根と連呼し、女は自分が産んだ男の子のチンポをしゃぶり、幼稚園のピアノの先生は園児である巨根の子どもに犯されまくるのである。
    石川淳、晩年の作品である。
    生まれた場所が輪廻転生の入り口である、というのは何となく理解できなくもない。
    そうであるなら、女陰が時空を超える出入り口であるのは、論理的なような気もする。
    だが、その論理性ゆえに、明らかに頭がおかしい、としか思えない。
    石川淳は自らの文学を究極まで追い求めたのであろう。
    そうして、この本の以前の持ち主、毛の主である人物(男か女か毛の長さでは判別できない)は、文学を求めたのか、変態趣味を求めたのか。
    どちらかは想像できないが、複数のページに、その場でむしったばかりのような皮脂の付着した毛を挟んでいるのである。
    作家も作家なら、読者も読者である。
    よほど個性的な人物なのであろう。
    本には、何かしら、こういう楽しみがある。
    一概には言えないとは思うが、江國香織と石川淳の読者とでは、こんなにも挟むモノが違うのか、と少しばかり感慨深くもあった。







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    憑依作家としてー石原慎太郎『天才』を読んでー

    新しい本屋のカタチというコンセプトで、6月10日にリニューアルオープンした、蔦屋書店に行った。
    どうせそうは言っても、と高をくくって入ってみたが、想像以上の空間作りに驚いた。
    ちょっと覗くつもりが、思わず長居してしまった。
    この書店を知れば、もう他のただ本が並べてあるだけの書店には入れないだろう。
    また、このような書店があるのなら、コンセプトも希薄な文芸即売会など、何の意味もなくなるだろう。
    1階のフロアにベストセラー本が平積みされてあり、幻冬舎から出た石原慎太郎『天才』を発見した。
    どうせ石原慎太郎が田中角栄の回想録でも書いたのだろう、と思っていた。
    だが、中を覗いて、驚いた。
    石原慎太郎が田中角栄になりすまし「俺」という一人称で自伝風に書いている小説だった。
    つまりは石原慎太郎に田中角栄が憑依し書いているのだ。
    小説家というのは大体が憑依体質で、その人のことを考えていると不意に魂がのりうつることがよくある。
    その魂が私の中で私に向かって話しかけてくるのだ。
    この他者の魂の声をそのまま記述するしないは作家それぞれだろうが、私はよくこの手法を用いる。
    だが、私の場合、大概、怒られる。
    なぜかというと、まだ生きている人間の生霊を宿すからだ。
    逆に言えば生きているのだから、生霊の仕業とはいえ、反論はできるのだ。
    怒る怒らないは相手次第だが、どちらにしろ、言語表現として健全だ。
    しかし、田中角栄は死んでいる。
    死んだ人間になりすますのは、相手が反論できない分、悪質ではないか。
    何よりも、一番憤りを感じたことは、石原慎太郎であれば許されて、それだけでなくベストセラーかつ賞賛までされる。
    バカを騙すように本を売る職業作家や商業出版社は大金を手に入れながら糾弾されることもなく、糾弾されるのは決まって私のような真摯で実直でほぼ無料奉仕の個人作家だ。
    石原慎太郎や大手商業出版社がこういうことを正論を吐きながら堂々とやるのなら、憑依作家として、私も負けていられない。



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    小熊英二氏へ感謝

    この約2週間、プロパイダ料金を滞納していた為、ネット接続できない状況だった。
    この間、日本人起源説についての本を読んですごしていた。
    小熊英二『単一民族神話の起源ー〈日本人〉の自画像の系譜ー』という本だ。
    幾多もある日本人起源説の諸々の成り立ちを説明しており、私の好奇心を刺激してくれる名著であった。
    小熊氏というのは著名な社会学者であるらしい。
    専門でこういうことをやってくれる人がいて本当に助かった。
    ありがとう。







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