マイペース・マイワールド

    心おもむくままに

    『何故?』ホームページ閉鎖のお知らせ

    『何故?』HP(http://e-naze.net/)を閉鎖しました。
    2009年3月に開設し、およそ5年。
    この間に起こった様々なことは、色々とありすぎ、何から書いていいのかわかりません。
    しかし、今さら、改めて、書くまでもないでしょう。
    このブログはもとより、それぞれの心の内に、深く刻まれていることと思います。
    5年という月日が短いのか長いのかわかりません。
    ただ、実感としては、あっという間でした。
    無我夢中で、ほぼ日常の全てを捧げていたからでしょう。

    人生、とは何でしょう?
    生きる、とは何でしょう?

    休止宣言から一年、HPを閉鎖した理由は、そういう『何故?』らしい自問自答の結果です。
    無論、感情的でも、衝動的でもなく、約1年もの間、熟考した結果です。

    常に、自問自答、せよ。
    それが、『何故?』の全てでした。


    【最後に】
    HP閉鎖に伴い、今までリンクをお願いしていた各種サイトオーナーの皆様へご迷惑をかけることになりました。
    後日改めてお詫びのメールをさせて頂きます。
    またドメインメールであるhenshubu@e-naze.netも使用停止となりますので、こちらで連絡をとっていた皆様へも、後日、改めて、お詫びを兼ねメールアドレス変更のお知らせをさせて頂きます。

    本当に、今まで、ありがとうございました。



    (色々ありましたが、幸せな日々でした。)


    何故?編集部 森井聖大

    Category : 何故?記
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    『何故?』活動休止の報告

    二時頃布団に入り、新潮文庫から出ている野坂昭如の『火垂るの墓』という短編集の中の『アメリカひじり』という短編小説を読み終わり眠りについたのだが、夜は一滴も酒を飲まず代わりに珈琲ばかり飲んでいたからか、それともただ酒がないと眠れないだけなのかわからぬが、眠りはいつになく浅く、半醒半睡の夢うつつのまま過ごし、外で鶏の声のするのが気になり、もう朝かと再びベッド脇の電気を灯し、次の短編小説である『焼土層』を読み始めたのであるが、その長く別居していた息子と老衰死した貧しい母の話に思わず感情移入してしまい、不覚にも涙をこぼし、途中で投げ出し、なおも外の鶏がうるさく鳴き続けるので、何時かと時計を見ると5時であるから、もういいやと、いよいよ起き上がり、部屋の電気を灯し、またコップに珈琲を注いだ。
    先月72歳の叔母と偶然出くわし、「お母さんとこ行ってないから。一緒に連れてってくれんか」と言われ、私の運転する車でともに私の母が暮らす施設を訪ねたことを不意に思い出し、その車中で後部座席に座る叔母が「最近、もう死にたいんよ。子どもも孫も大きなって、何もすることなくなった」としきりに言ったことなどを思い出し、その時それに対して何もかける言葉が見つからなかった頼りない自分自身の心境を思い出し、本当は言葉で何かを言うべき人間であるのに、何も言うことができず、「まあまあ」という何とも頼りない言葉しかかけられず、その時からどうにも自分自身の言葉の質に、こういう場合の、感情的かつ身勝手な若い人の傷ついたというどうでもいいものにたいするその場限りの慰めの言葉ではなく、本当の人間の永遠の問いかけのようなしみじみぽつりと呟くような心情への言葉というもの、間違いなく叱りや物の道理や宥めすかす言葉ではない、真の言葉を、もうどうせなら嘘でもいいのだがこの先ずっと「そうやなあ」と思わせ気を楽にさせ大往生させるべき言葉もなく、どうして作家であるかという、自己嫌悪を運転しながら不意に感じたことを思い出して、もし仮に叔母ともう二度と会うことなく、無論自殺などはしない人だが歳が歳だからいくら元気に見えてもいつどうなるかはわからぬなかで、そのことにたいする言葉というものが未だに何も見出せないので、私はとても上等な作家ではないことを痛感している。
    昨日か一昨日か、ついに小倉風太が銀座モダンアートへ「何故?の者ですが」と電話したということを聞いて、どうにも『何故?』をやっていく気にもなれず、二日ばかり考えていたが、この件に関しては色々と言いたいことはあるが、もう何も言う気になれず、結論だけ言うと、しばらく『何故?』を休止することにする、少なくとも一年ばかり休むことにする、これは何も小倉風太のせいではなく、ただの最終通告にすぎず、もともと実は『君はフィクション』という小説まがいの作品を書き上げた時から、いや書いている最中から、このことは何気に予感としてあったことで、いわば作品での琴葉はまさに現実の私であり、小説家というのは私の理想の姿として描いたのであるから、現実の営業に奔走する編集者の私は死に、ただ小説家として生きたいと願っていたのだろう。私は作品と同じように自殺したのだ。四年間、無我夢中で走り続けてきたのだが、今回の件は、私の中で、同人誌の在り方を考えることにもなり、その結果、現状の『何故?』ではそれが叶わないので、一度真っ白にして、ただ小説を書くことだけを考えた活動を一年ばかりしたいという考えに至る。表向きとは違い、私自身が全く感情で動くのを好まない人間であるから、一度はあまりに感情的な一部の人々と接点を断ち切りたく『何故?』解散という案も浮かんだが、それはどうも私自身感情的にすぎる、同じ穴のむじなではないかと思い直し、一応休止、休刊という、いわば保留という形式をとるに至った。一年という期間は、一年後に確実に復刊するというものではなく、少なくとも一年は『何故?』としての活動を休止するというだけのことで、この先もしかすると一年後にも動き出さない場合もあり得る。色々と考えた結果であり、このまま第二章に突入し一号目をだす気には到底なれないし、本当のはじまりである一号目なのだからきちんとした形で発刊したいので、この結論でご了承願うしかない。
    厳密にいえば既に申し込みをしている6月9日の福岡ポエイチまでは『何故?』の森井聖大としての仕事を全うする。そして6月9日をもって『何故?』の看板をおろし、宿がない、しがない物書きとして、しばし文藝の旅にでたい。


    最後に、『何故?』読者の皆様、関係者の皆様へ。
    身勝手なことは重々承知の上での結論なので、何卒、ご理解の程、よろしくお願い致します。
    今までありがとうございました。

    Category : 何故?記
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    真夜中のラジオ(『何故?第二章 零号ー衝動』印刷開始)

    3月15日に表紙を受け取ってから、ここ数日、ほぼ毎日、仕事終わりや仕事前に『何故?第二章 零号ー衝動』の印刷をやっている。
    それでも現在、20部程度しかできていない。
    この『衝動号』はとても良い本なので、広く、なるだけ多くの人に読んでもらいたいのだが、なかなか難しい側面もある。
    色々考えたところで、最後は、できることしかできない。
    それでも、ずっと同じことをやっているから、最近できることの範囲が少し広がった気もするが、それでもほんの少しだけだろう。
    毎号読んでいる人からは
    「あまり変わらないね」
    と言われるかもしれないし、
    4年前に読んでから久しぶりに読んだ人は
    「だいぶ変わったね」
    と言われるくらいのものだろうか。
    何故、こんなことに、おれは命を賭けているのだろうとふと思う。
    以前、『何故?』を評して
    「真夜中のラジオみたいで好きです」
    というメールを頂いたことがある。
    その時、
    「なるほど。そういう受け取り方もあるんだなあ」
    とふと思ったが、そのことを、先日、朝のコンビニで不意に思い出した。
    朝のコンビニに入ると、店内では爽やかな声の女性パーソナリティが小鳥のように囀る、朝ならではのラジオを流していた。
    店内を物色している合間、自然とそのラジオに耳を澄ませていたのだが、ラジオからのメッセージが余りにも暗く悲しく、やおら涙が零れそうになったので、急いで缶コーヒーだけ買って外に出た。
    爽やかな朝のラジオからは、子どもからお父さんへのメッセージ、をくりかえし聞かせていた。
    「お父さん、朝早くから、わたしたちの為にお仕事ありがとう。頑張ってね」
    「お父さん、大好き。今日も夜一緒にご飯食べようね」
    ラジオパーソナリティは、この類のメッセージを何通も何通も読みあげる。
    コンビニの、あるいは通勤途中の所謂お父さんたちに、この朝のラジオを聞かせる意図がわかりすぎるほどわかって、嗚咽がこみ上げそうになる。
    戦時中の大本営ラジオと何も変わらない。
    全部、嘘だ
    世の中は聖書や仏教、古事記や日本書紀も含め、様々なフィクションで覆われている。
    おれは、人に犠牲を強いるフィクションは嫌いだ。
    お父さんは毎朝毎朝家から逃げだしたい衝動に駆られている。
    コンビニで缶コーヒーを買いながら、スポーツ新聞を買いながら、
    「ああ、このまま遠くへ逃げたい」
    と思っている。
    老人も政治も社会もそれを知っている。
    だからこそ、そこに聴こえてくるラジオからは、子どもからのメッセージを繰り返し流さないといけない。
    お父さんの心を引きとめようと、洗脳するように何度も告げる。
    「逃げちゃだめ」
    もっとわかりやすく言うと、こういうことだ。
    「社会を成り立たせる為に、お年寄りの年金の為に、子どもの為にも働かないといけないのよ。それがお父さんの幸せなのよ。お父さん犠牲になってね」
    おれが朝のラジオのパーソナリティをやらせてもらうことになったら、毎朝、こんなメッセージを届けたい。
    「今すぐ、逃げろ!」
    保身のために、嘘がまかり通る時代に、それは嘘だと誰かが言わないといけない。
    それが全てではないが、一つの『何故?』をやる動機であり、『文学』の意味だろう。
    おまえの力を恐れて、あいつらは、芸術は感性だ、才能だと嘘ばかり教え、おまえを騙そうとする。
    それを信じたおまえはどこにも存在しない感性や才能という言葉とともに心中する。
    「騙されるな!全部嘘なんだから!」
    真夜中のラジオではなく、朝のラジオでこういうことを言えるようになるまで、頑張りたい。
    誰も犠牲にならず、皆がたった一度の人生を謳歌できるような、新しいフィクションを創り出したい。
    気が遠くなる話の、スタートがまさに『何故?第二章 零号ー衝動ー』なのだ。

    さて、印刷しよう。

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    小柳日向との会合 その7 -書を捨てよ、町へ出ようー

    翌日、帰りの特急電車の中で、おれは一冊の文庫本を読んでいた。
    寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』だ。
    小倉駅から、横の座席に、ミニスカートの女が座った。
    多少気になりながらも、文庫本を読みすすめる。
    隣の女は何のつもりか、足を伸ばし、生足をこれ見よがしに見せつける。
    文庫本の向こう側で、視線の端っこで、女の生足が動く。
    それはまさしく見せつけるという表現しか見当たらない、不自然な動きだった。
    おれを足で誘惑している。

    ちょうどその時読んでいたページにはこう書いてあった。

    映画『わんぱく戦争』の中で一人の男の子がたずねる。
    「だれが大将になるの?」
    すると、他の子が毅然とこたえる。
    「ちんぽこの大きい子がなるのさ!」
    一口にいって、現代は〈足的時代〉にさしかかっている。
    それは人間の歴史が、道具を発見し、そしてそれを使いこなすことで産業を生み出してきた〈手的時代〉にとってかわるものである。
    「手は作るが、足は作らない」
    べつのことばでいえば手は、生産的だが、足は消費的である。そして、足は手よりもはるかに享楽的なイメージをもっているようである。
    足的時代のサンプルは「膝上10センチのスカートとサッカー」である。
    そこには、美しい足と強い足がある。



    おれの横には、明らかにおれに見せつけようとする足があった。
    小柳日向は強靭な足力を歩くことで見せつけはしたが、決して生足は見せなかった。
    しかし今おれの横には、一声かけなければ失礼なんじゃないかと思うほど、明らかに自慢の生足を見せつける女がいるのだ。

    だが、おれは一時の想いを口にするのを押し止まった。
    さらに読み進むと、こう書いてあったからだ。

    「タマを持ってるやつから目をはなすなよ。いつもそいつの傍にいるんだ。それが人生の目的というものだ」



    タマをもっているやつで、すぐに想起したのは、小柳日向だった。
    小柳日向はタマを持っている。
    どこまでも歩ける強靭な足と誰よりも大きなタマを持っている。
    足的時代のなか大小様々なタマを持っているやつは山ほどいるが、小柳日向の足とタマにかなうやつはいない。
    1日すごして、それだけは確信した。


    おわり。



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    小柳日向との会合 その6-2 -人食いー

    「ラストオーダーになります」
    21時を少し回った頃、店員がVIPルームに入ってきた。
    おれは玉子焼きを頼んだ。
    玉子焼きが嫌いな人間はいないだろうという勝手な思い込みだったが、小柳日向は
    「わたし玉子焼き、嫌いです」
    と言った。
    「えっ?なんで?」
    「卵を焼くのは残酷な気がして。赤ちゃん焼いて食べてるみたいです」
    しかしおれは玉子焼きが好きなので構わず頼んだ。
    「きみも何か最後に頼みなさい」
    そう言うと、迷うことなく小柳日向は
    「じゃあカラメルプリンください」
    と注文した。
    「卵入ってるじゃないか」
    「焼くのとは意味が違います。焼くって野蛮です」
    「そっか人間は野蛮か。人間しか焼かないのだからな」
    しばらくして玉子焼きとカラメルプリンがVIPルームに運ばれてくる。
    「なんでカラメルプリンなんだい?」
    おれが聞くと、小柳日向は美味しそうにプリンを食べながら、こう言った。
    「だって記憶から消したい嫌な1日でも、最後に甘くて美味しいもの食べたら全部忘れられるから」
    おれは若干ショックだった。
    楽しい1日だと思っていたのはおれだけだったのだ。
    不意に、今だ!食いちぎれ!食いちぎれ!と部屋のカラオケスピーカーから微かに誰かの声が聞こえてきた。
    の声だ。
    が食いちぎれと言っているのだ。
    「何か声が聞こえないか?」
    カラメルプリンを食べ終わった小柳日向に聞く。
    「ええ、聴こえます。でも食いちぎったところで何も変わりませんよ」
    小柳日向はクールかつドライに答える。




    「全部、が悪い」
    「どうでしょう。わたしは人を善悪や好き嫌いで判断しないからわかりません。ただ…」
    おれは玉子焼きを頬張る。
    ダシ巻き卵と書いてあったが、あまりにも味が薄いからマヨネーズをかけてごまかしている、ただの玉子焼きだった。
    「おじさんでセクハラする人は嫌いです」
    それはまさに全裸になったおれへの当てつけの言葉ともとれる。
    「全裸はセクハラか」
    「どうでしょう」
    は言葉の暴力だ」
    「どうでしょう」
    おれは小柳日向が残した梅酒をひったくり一気飲みする。
    「今日は良い1日だった」
    「ええカラメルプリンで全て帳消しです。最後に約束してくれますか?」
    「えっ?なにを?」
    「今日のこと、きっとブログに書くのでしょうが、嘘だけは書かないでくださいね」
    「当然だ。おれは私小説作家だ、嘘は書きたくても書けない。安心してくれ」
    「ありがとうございます」
    おれは服を着た。
    そうして衝動に駆られるように、小柳日向を食いちぎり、飲み込んだ。
    満腹になったおれはコールボタンを押した。
    黒ぶちメガネの北九州書房の増田原樹に似た小太りの店員がやってきた。
    「あれ、お連れの方は?」
    「先に帰った。会計をしてくれ」
    そうしておれは店を出て博多駅へ向かう。
    後ろから居酒屋の増田が息をきらして追いかけてきた。
    「お連れの方の洋服が席に残ってました!」
    「ああ、小柳日向は全裸で帰ったんだ。おれが食べたわけじゃない」



    つづく。

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