森井聖大ファンクラブ通信

    マイペース・マイワールド

    天草周遊記6-天草・島原の乱と天草四郎(3)-

    天草四郎は、いわば通り名である。
    もともとの名は、益田四郎といった。
    では、この益田四郎という少年は、何者だったのか。
    益田甚兵衛なる百姓の長男だ。
    四郎は一人息子であり、他に姉と妹がいた。
    では、この百姓であった父・益田甚兵衛とは、何者であるのだろうか。
    実は、四郎の父・甚兵衛は、小西行長の元家臣であり、祐筆という職務につく文官だった。
    小西家断絶後、家臣であった父は、農民となり、天草(もしくは隣の宇土)で生活していた。
    ここまでをまとめよう。

    1.キリシタン大名が元の領主だった。

    2.キリシタン大名でない領主に変わった。

    3..飢饉が起こった。

    4.厳しい年貢の取立てにより生活が困窮していた。

    5.農民の中には、小西家や有馬家というキリシタン大名の元家臣であった百姓たちが数多くいた。

    6.天草島原の乱の指導者層は、上記5の者たちである。

    7.一揆に対し、指導者層(キリシタン大名の元家臣たち)は、生き地獄に耐えるより、死して天国に行くことを説いた。(キリスト教により、民衆を先導した。)

    9.この乱の象徴として、大義名分を背負った救世主として、文官である父たちが創作した奇跡物語を通し、一人息子・益田四郎を、天草四郎として祭りあげた。

    さて、ここまできて、気づいたことだろう。
    天草・島原の乱は、偶発的に起こった百姓一揆ではなかった。
    この乱の最高指揮権は関が原の戦いで敗れた今は百姓暮らしの浪人たち13人が有していたのだ。
    彼らにとっては、最後の戦だった。
    天草四郎の数ある逸話の中、秀頼の子、秀吉の孫、という伝説がある。
    これはデマなのだが、一部には、そうして反乱軍を募ったのだろう。
    ただ、これは、武士もしくは元武士にしか通用しない逸話だ。
    秀吉の後継者であるという理由など、百姓たちには、てんで関係ないのだ。
    昨今の震災などでわかるだろう、デマの中には少なからず民衆の心理が隠されている。
    この天草・島原の乱は、新政権(徳川家や江戸幕府)を確立させまいとするバックラッシュだ。
    時は進み、明治初期に起こった神風連の乱も同じく新政権への反旗であった。
    これらは全て同じ熊本地方で起こっている。
    それは、何故であるか。
    熊本県人を表す言葉に、もっこす、という呼び名があるのをご存知だろうか。
    つまりは、これら新しき体制への抵抗、反乱、圧倒的な保守思想、これこそがもっこす精神なのである。
    今現在、新商品などのマーケティングの基本で多くの企業がまずは熊本で試すと言われているほど、熊本県人は新し物好きで有名である。
    だが、熊本県人の精神性が、今と昔で変わったわけではない。
    いつの世も、もっこすは、少数であった。
    少数のもっこす精神有する熊本県人が、熊本の民衆を魅了し、様々な騒動を引き起こしてきたのだ。
    現在、このもっこす精神を体現するのは、ばってん荒川亡き後、ばってん城次であろうか英太郎であろうか。
    いや、どちらでもないだろう。
    ばってん城次や英太郎では、誰も、死を賭してまで戦わないはずだ。
    どのような人気者であっても、やはり誰も天草四郎にはなれないのだ。
    熊本だけでなく、日本全土を見渡しても、(カルト教団は除き)、たとえ祭り上げられたとしても、神に一番近い座にまで祭り上げるだけの価値ある者は、未だ、天草四郎以外には出ていない。
    天皇がいるではないか、と言う早計な論客もいるだろうが、天皇は、万世一系という長い月日の重みがなければ、ただの人ではなかろうか。

    一代で、いや、たった16歳で、救世主にまでなった者は、日本の歴史上、天草四郎のみである。



    つづく。



    Posted by 椰子金次郎 on  | 0 comments  0 trackback

    天草周遊記5-天草・島原の乱と天草四郎(2)

    天草・島原の乱は、弾圧されたキリシタンたちの反乱だったのだろうか。
    もしくは、なぜ、歴史上、キリシタンの戦いとなっているのだろうか。
    もともと、天草・島原地方を治めていたのは、どちらもキリシタン大名だった。
    しかし、宇土、天草を治めていた小西行長は、関が原の戦いで西軍側につき、敗れ、斬首された。
    島原を治めていた有馬氏は、延岡(現在の宮崎県北部)藩へ国替えになった。
    その後、天草と島原を治めたのはキリシタンでない領主であり、江戸幕府の政策もあり、キリシタン迫害の後、住民全員が改宗させられていた。
    だから、一揆を起こしたのだろうか。
    いや、そうではなく、乱に至った主要因は、寛永10年から14年までの約4年間にも及ぶ飢饉だったようだ。
    そうであるのに、厳しい年貢の取立てをし続ける領主への反乱だった。
    時系列としては、こうなるだろう。
    キリシタン改宗後、飢饉があり重税がありで、生活は良くなるどころか悪くなる一方だった。
    このことで、この地の百姓たちは、皆、このように、しみじみ思うようになっていた。
    「あの頃はよかったばってんなあ」
    「ほんまごつ、キリシタンであった頃は良かったばってん」
    良い生活=キリシタン時代だった。
    ただ、これだけでは、戦という行動を起こせるはずもない。
    「ああ勉強やだな、受験やだな。小学生に戻りたいなあ」
    そう思い、映画ではあるまいし、僕らの七日間戦争よろしく、学校に立て篭もり、ペンを銃に変えて戦争をはじめる中高生はいないだろう。
    「ああ仕事やだな。税金払いたくないなあ。いっそのこと原始人になりたいなあ」
    金があれば引きこもったり、悠々自適のエコライフやペンション経営でもするのだろうが、そうでなければ飢死かホームレスが関の山で、愚痴愚痴言ったりデモったりだけで、タイムカードを捨て武器を手に持ち3万人以上集めて城に立て篭もる奴らがいるはずもない。
    仮に記憶に新しい昭和に起こった安保闘争を一揆だとすれば、ほとんどの学生も民衆も立て篭もり戦争はしなかった、連合赤軍事件で立て篭もったのはたったの5人だ。
    ここで、主要人物である天草四郎について考えてみよう。
    バラバラ日本の要が天皇だとしたら、天草・島原の乱においての要は間違いなく天草四郎だ。
    天皇は天孫降臨の名の通り高千穂に降り立ったそうだが、果たして、天草四郎は、どこから降って湧いてきたのだろうか。
    まさか、同じく、天から降って来たわけではなかろう。
    さて、天草四郎とは、一体、何者だったのだろうか。


    つづく。



    Posted by 椰子金次郎 on  | 0 comments  0 trackback

    天草周遊記4-天草・島原の乱と天草四郎(1)-

    まず、天草・島原の乱とは、何だったのだろう。
    それは、紛れもなく、江戸時代最大の民衆の反乱だった。
    江戸時代初期、今から約400年ほど前、1637年10月25日~翌1638年2月28日までの約4ヶ月間の出来事だ。
    島原での百姓の蜂起をきっかけに、2日後には有明海を挟んだ天草の百姓も蜂起した。
    歴史の教科書に島原の乱とだけあるのは、その後、天草・島原の百姓約3万7000人が合流し、12月1日から島原の原城に篭城したことから、文書を書き残した国家(幕府)側との戦いの場所が島原一点となったからだ。
    この篭城により、それから3ヶ月間にも及ぶ日本史に残る幕府軍総勢12万人との攻防戦がはじまったのだ。
    だが、再三述べてきたが、日本史を書き残す国家(幕府)側の視点において、島原の乱という名で呼ばれていようとも、明らかに、これだけでは片手落ちなのだ。
    大事なことだから声を大にして言っておきたい。
    国家は古事記や日本書紀の例を出すまでもなく古代から国家安泰の為に史実を捏造するのを常態化している。
    だからして民間伝承においては国家が狡猾にこしらえた史実や簡略化した名称にあわせる必要性なんぞは全くないのだ。
    現在でもそうだが、そもそも学校での歴史の授業などは、きちんと「国家目線ですがね」と教師が前置きをしてから、少年少女に教えるべきものだ。
    天草・島原で起こった反乱なのであるから、天草的には天草・島原の乱でよいし、また島原的には島原・天草の乱でいいのだ。
    ともかく、この二つの地を並列しておかないと、この乱の真実を捻じ曲げることになり、意味が通らなくなるだろう。
    それにしても、いくら素人の寄せ集めだとしても3万7000人という数が集ったことは異常事態だろう。
    江戸時代初期の日本の人口は不明瞭だが、江戸時代中期の日本の人口は約3000万人前後だったと言われている。
    人口比率で考えれば現在(約1億2000万人)で言えば4倍の14万人レベルであり、当時から天草・島原の人口が多かったとは思えないから、ほぼ全住民が国家(幕府)と戦った事になる。
    乱は乱でも、江戸時代後期、人口が多そうな大坂で起きた大塩平八郎の乱で蜂起した人数なんぞはたったの300人なのだ。
    このことを考えれば、この3万7000人という数の異常さが、わかることだろう。
    そうして、この3万7000人の天草・島原の百姓を相手に、幕府軍は4倍であり関が原の戦いを上回る兵力12万人を投入したのだ。
    幕府としても、もはやたかが百姓ではなく、まさに本気の大合戦であった。

    しかし、一体、天草・島原の乱は、どのようにして、このような大きな反乱となったのだろうか

    それにもまして、どのようにすれば、このような国家(幕府)体制を脅かすほどの異常な数の民衆が集い、命を賭してまで、国家と相対し戦うことができたのだろうか。

    この問いを発してこそ、はじめて天草・島原の乱の特異性が垣間見えてくることだろう。

    多くの戦や反乱が現世利益への希求であることに比して、天草・島原の乱は、紛れもなく、キリスト教を背景にしていた。

    わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。ーヨハネ福音書6章40





    つづく。

    Posted by 椰子金次郎 on  | 0 comments  0 trackback

    天草周遊記3-天草・島原の乱と天草四郎(序)ー

    話は前後するが、天草から戻り、図書館へ行った。
    現実的に図書館へ通っている暇な貧乏人ならば知っていることだろう。
    どこの図書館にも郷土史コーナーがある。
    天草四郎の謎を解くために郷土史コーナーへ突進しながら、この為に熊本へ来たのではないか、と思った。
    夏目漱石ではなく、天草四郎だったのではないか。
    歴史の教科書では『島原の乱』と習った。
    これまで、このことを、何とも思っていなかった。
    だが、実際、熊本に住み、天草を訪ね、郷土史を読んで、気づいた。
    確かに、これでは、片手落ちだ。
    天草(熊本)と島原(長崎)という有明海を挟んだ二つの地で起きたのだ。
    実際、天草側では、天草・島原の乱と呼んでおり、また逆に島原では、島原・天草の乱と呼んでいたりもする。
    どちらにしろ、やはり島原の乱というだけでは、この乱の全貌を言い表せていないのだ。
    何故、私は、熊本へ来て、天草へ行ったのだろうか。
    すべては、天草四郎の導きなのではなかろうか。
    よって、これから語る物語を、天草側に立ち、天草・島原の乱と呼ぶことにする。


    つづく。


    Posted by 椰子金次郎 on  | 0 comments  0 trackback

    天草周遊記2-天草四郎メモリアルホールー

    現在、天草というと、何を思い浮かべるだろう。
    今時ならば、新鮮な海の幸をふんだんに使用した海鮮料理や、水族館や海水浴、はたまたB級グルメで有名なビックリ焼きなのかもしれない。
    だが、前回書いたように、私にとって、天草といえば、天草四郎だ。
    そうそう、天草四郎といえば、ヨイトマケの美輪明宏氏が天草四郎の生まれ変わりだと言っているが、実は、私も、10代半ばまで、そう思っていた時期があった。
    ただ、その後、生きていく内に、人間観への紆余曲折があり、前世の件については美輪氏に譲った。
    現在での私の輪廻転生への見解は、生まれ変わりというよりは宇宙塵の結合方向で考えている。
    それでも一時期でも同一化していた天草四郎の土地に、今、ようやく、こうして、たどり着いたのだ。
    道の駅宇土から一本道、天草方面にバイクを走らせると、上天草市大矢野町に入る。
    左手に天草四郎メモリアルホール、右手に道の駅・上天草物産館「さんぱーる」があった。
    無論、私が、まずはじめに訪れた場所は、天草四郎メモリアルホールだった。

    天草四郎メモリアルホール

    館内に入ると、綺麗な女性二人が出迎えてくれた。
    入場料は、600円だ。
    当時を再現したジオラマなどがあった。
    館内は撮影禁止と書かれていたが、ほぼ同時に入った両親と息子一人という核家族は、一眼レフの高級そうなカメラを首から提げたカメラ小僧息子がパシパシ撮っており、両親は何も注意しないどころか、一緒になって喜んでいた。
    こういう子どもには、そもそも天草四郎への愛はもとより興味も何も微塵もないだろう。
    一体、こやつは何しに来たのだろうか。
    同じ年頃の天草四郎は首から十字架を提げ命を賭して戦ったのに、この少年は何のつもりか一丁前に首から一眼レフをぶら下げている。
    これが時代というものだろうか。
    そんなことを思いながら、順路に沿って拝観していった。
    途中、大きなスクリーンがあった。
    映画コーナーらしいが、誰も居らず、何もやっていなかった。
    特に観るつもりもなかったから、次の展示物を観ながら、そのままゴールに向かって歩いていた。
    すると、職員らしき中年男性が血相を変え走って追いかけてきた。
    「今から映画を上映するので是非観て下さい!」
    切迫した表情と声音であった。
    私は、思わず、促されるまま、案内された椅子に座った。
    「では、はじまります」
    それから、『我が心の天草四郎』という15分ほどの映画を観た。
    乱の後、熊本藩士が在りし日の天草四郎を想い浮かべながら資料をまとめる、という筋書きだった。
    最後のテロップでわかったが、この大矢野町が自らで製作していた。
    最後まで観終わり、とにかく観て欲しい、という男性職員の気持ちがよくわかった。
    館内全体を貫く、天草四郎への愛が表現されている良い映画だった。
    その後、次の展示を観てまわった。
    興味をひいたのは、フランス革命と天草・島原の乱の対比であった。
    余りに唐突すぎて、一瞬、度肝を抜かした。
    フランス革命に先駆けること150年も前に、天草と島原の農民は自由と平等を掲げ戦った、という主旨だった。
    天草愛が強いのはわかるが、この世界史を引っくり返すような主張は、いくらなんでも言いすぎではないか。
    さらに、その次にあったのは、新聞の切り抜き記事で、1991年大矢野町長はローマ法王ヨハネ・パウロ2世に会い、「天草四郎率いる天草・島原の乱は、殉教とヒューマニズム、デモクラシーが混然一体となった戦いだった」との書状を贈った、というニュース記事が飾られていた。
    この施設だけならまだしも、欧州の人間にまで、この自説を訴えたのか。
    島原の乱は、キリスト教においては殉教とも認められていない。
    そもそも自由や平等などという概念は西洋のものだろう。
    我々日本なんぞは鼻から天皇以外のその他大勢の下々の者は自由であり平等ではないか。
    それにしても、この展示だけでは、どういう根拠で、ただの百姓一揆の発展を、自由と平等を掲げた闘いだと言いのけるのかはわからなかったから、私は戸惑うばかりだった。
    だが、そう言うには、それだけの根拠があることを後日知る事になる。
    最後に、最上階にある瞑想ルームに入った。
    暗い部屋に、奇妙な配列にクッションが並べられ、微量な光のイルミネーションを施してあった。
    行政がやる施設としては考えられない異様な雰囲気が漂っており、一種のトランス状態に陥るような空間だった。
    奇妙なクッションに座り瞑想をしていると、不意に、時空を超え、天草四郎や当時の天草の民衆が眼前に立ち現れた。
    「ああ、そういうことだったか」
    この瞑想ルームに最後訪れることに、この施設の真意があるようだった。
    私は、これ以上に無いほどの高揚感と虚脱感で、ふらふらになりながら、階段を降り、館内を後にした。
    結論を言うと、天草四郎メモリアルホールは、ただの観光施設ではなく、良い意味での一種のカルト宗教施設のようだった。
    こういえばわかるだろうか。
    およそ400年前、天草四郎を通し人々が思い描いた理想をそのまま伝えている施設なのだ。
    天草四郎はもちろんのこと、それ以上に命を懸けて戦ったこの地の先人たちを、心から尊敬し、今も敬っている気持ち(もはや気迫である)が恐ろしく伝わってきた。
    その心を隠すことも無く訴えかけてくる。
    そんな地元の人々の狂信的かつ真摯な態度に、私は、心を打たれたのであった。

    参照サイト:天草四郎メモリアルホール




    つづく。

    Posted by 椰子金次郎 on  | 0 comments  0 trackback
    このカテゴリーに該当する記事はありません。