マイペース・マイワールド

    心持ち喧嘩せず

    大義名分なき文学フリマ出入り禁止措置に対する人間愛的考察

    前回の記事〈砂漠化する文学フリマの冷やかな闇ー牟礼鯨氏への理不尽な制裁ー〉でも述べたとおり、発端には、牟礼鯨氏と高村暦氏という二人の男女の別れ話の拗れがあったわけだが、そうだとしても、そのことを早合点し、牟礼鯨氏の主張をそのまま受け入れ、「邪魔な元カレを陥れる為に警察を利用して」とか「別れ話に税金を使いやがって」とか「普段は作家を気取っておきながらこんな時だけ女を武器にして」と舌打ちし、はじめに警察へ駆け込んだ高村暦氏を責める浅はかな輩が出てくるのは真意ではない。
    高村暦氏側からすれば、三鷹ストーカー事件の直後だったことを悪意に満ちた策略として利用したわけではなく、むしろ連日のマスコミ報道で、事件と同じようなことが自分の身にもふりかかると本気で思うようになり、うら若き可憐な一人の女性として、どうしていいかわからず(日本国民の当然の権利として)警察へ相談にいった、と解釈した方が妥当であろう。
    一旦嫌いになった人間は生理的に受けつけないものだ。
    ただ視野に入る場所にいるだけで死の宣告のようなもので、生存を脅かされるほどの恐怖心が芽生えたとしても何ら不思議なことではない。
    男女関係の終わりでは双方同時にタイミング良く愛想が尽きることはほぼ無い為に、必ずと言っていいほどいざこざが起き、常には考えられない人間の感情が噴出し、精神的に不安定にもなり、双方や周囲、誰もが困惑する場面が往々にしてあるが、そういう場面で、周囲までもが二人の混沌や喧騒に波長を合わせれば、混乱は益々広がり、収拾がつかなくなる。
    よって、現在、このような状況になったのは、牟礼鯨氏のせいでもなく、高村暦氏のせいでもなく、あくまで問題は、その後の、山崎氏からはじまる文学フリマ事務局側の不適切な対応にある、と考えられる。
    警察というものは、周知の通り、犯罪予防の為に、ましてやストーカー事件の後ともなれば、とりあえず何かあったら困るからというただそれだけの理由で警告を出して当然なのである。
    問題の根源は、文学フリマ事務局が、それを真に受けて、精査することなく、安易に、出入り禁止措置という処分を下したことにある。
    このことによって、文学フリマ事務局という組織が、組織ぐるみで、実質的に、牟礼鯨氏を変質者と認定し、文学フリマ関係者間での「あいつストーカーらしいぜ」「まあ怖い」という牟礼鯨氏への汚名を確定させたのである。


    3月26日 山崎代表が西瓜鯨油社へのサークル参加証発送を保留したと鯨に知らせる。金沢事務局の切ってきたカードに対し鯨が切れるカードは文学フリマ金沢事務局への批判のみとなる。

    4月19日 鯨は第一回文学フリマ金沢の会場に入る。山崎代表、東京の望月代表、黒瀬珂瀾氏に取り囲まれ入場から30分もたたずに退去勧告を受け退去する。

    第一回文学フリマ金沢の騒動についてより



    一方だけの意見を聞き、一般参加者を変質者扱いした、このことの罪は大きいのではないか。
    もちろん私は誰かの責任を追及するつもりはなく、そんな権利も持ち合わせていないが、ただ、文学フリマの代表者や名のある歌人の方が揃いも揃って、文学の名を貶めるような軽率な行動をしたことへの反省だけは促しておきたい。
    それにも増して、ただ単純に勘違いして変質者扱いしただけならまだしも、事なかれ主義もしくは決断力の無さから1年以上にも渡り変質者扱いし続け、出入り禁止措置を撤回することなく、その後の牟礼鯨氏のインターネット上での真実への希求であり切実なまでの訴えである捨て身の文章に私情を乱され憤慨した挙句私的制裁の意味合いで出入り禁止措置を継続しているならば、なおさら、文学フリマの闇は深いだろう、と懸念する。
    私の考察など誇大妄想狂の戯言として一笑にふされ無視されることはわかっている。
    ただ、一介の名も無き21世紀的文学生活者として、ひとりの心を持った人間として、私の文学や人間への誠実の為にも、声小さく力弱くとも、これだけはお願いしたい。
    早急に牟礼鯨氏への出入り禁止措置を撤回してもらい、変質者の汚名を払拭してもらい、名誉を回復してもらいたい、と切に願う。

    どこの世界の人間が変質者扱いされたままで生きていけるだろう。

    どこの世界の人間が無実の罪を人に着せたまま生きていけるだろう。

    もはや文学以前の問題であり、人間としての心があるかないか(他者への思いやりがあるかないか)の問題だ。
    想像力があろうとなかろうと少し考えれば誰にでも分かるはずだ。
    文学フリマ事務局というのは、その名の通り日本最大の文芸即売会を催す組織であり、その名の通り事務的であるのだとしても、一個人は一つの精神で、小さくともそれぞれの人生を、懸命に生きているのだ。
    このままでは3人の精神が危うい、と、ただそれだけを危惧している。


    I can either take responsibility for it or not.Either way I have no one to blame but myself.



    全ての文学青年へ捧ぐ。


    Posted by 森井聖大 on  | 0 comments  0 trackback

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