本に挟むモノー石川淳『六道遊行』を読んでー

    以前、ブログで書いたことがある。
    気まぐれに江國香織の短編集をブックオフで購入した際、多分どこかの主婦のヘソクリだったのだろう、ページの間に千円札が挟まっていたことがあった。
    あれから、数年後、今回、石川淳の小説を購入したら、複数のページに、毛根の皮膚まで付着している長めの毛が何本も挟まっていたのである。
    何を挟もうと個人の自由ではあるが、それにしても、この小説が変態に好まれそうな内容であったのも手伝って、どうにも気持ち悪くなった。
    女陰を通し現代と過去をタイムスリップし、ほぼ全編に渡って(ただ巨根と言いたいだけの小説ではないのかという錯覚を起こさせるほど)巨根巨根と連呼し、女は自分が産んだ男の子のチンポをしゃぶり、幼稚園のピアノの先生は園児である巨根の子どもに犯されまくるのである。
    石川淳、晩年の作品である。
    生まれた場所が輪廻転生の入り口である、というのは何となく理解できなくもない。
    そうであるなら、女陰が時空を超える出入り口であるのは、論理的なような気もする。
    だが、その論理性ゆえに、明らかに頭がおかしい、としか思えない。
    石川淳は自らの文学を究極まで追い求めたのであろう。
    そうして、この本の以前の持ち主、毛の主である人物(男か女か毛の長さでは判別できない)は、文学を求めたのか、変態趣味を求めたのか。
    どちらかは想像できないが、複数のページに、その場でむしったばかりのような皮脂の付着した毛を挟んでいるのである。
    作家も作家なら、読者も読者である。
    よほど個性的な人物なのであろう。
    本には、何かしら、こういう楽しみがある。
    一概には言えないとは思うが、江國香織と石川淳の読者とでは、こんなにも挟むモノが違うのか、と少しばかり感慨深くもあった。







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