天草周遊記4-天草・島原の乱と天草四郎(1)-

    まず、天草・島原の乱とは、何だったのだろう。
    それは、紛れもなく、江戸時代最大の民衆の反乱だった。
    江戸時代初期、今から約400年ほど前、1637年10月25日~翌1638年2月28日までの約4ヶ月間の出来事だ。
    島原での百姓の蜂起をきっかけに、2日後には有明海を挟んだ天草の百姓も蜂起した。
    歴史の教科書に島原の乱とだけあるのは、その後、天草・島原の百姓約3万7000人が合流し、12月1日から島原の原城に篭城したことから、文書を書き残した国家(幕府)側との戦いの場所が島原一点となったからだ。
    この篭城により、それから3ヶ月間にも及ぶ日本史に残る幕府軍総勢12万人との攻防戦がはじまったのだ。
    だが、再三述べてきたが、日本史を書き残す国家(幕府)側の視点において、島原の乱という名で呼ばれていようとも、明らかに、これだけでは片手落ちなのだ。
    大事なことだから声を大にして言っておきたい。
    国家は古事記や日本書紀の例を出すまでもなく古代から国家安泰の為に史実を捏造するのを常態化している。
    だからして民間伝承においては国家が狡猾にこしらえた史実や簡略化した名称にあわせる必要性なんぞは全くないのだ。
    現在でもそうだが、そもそも学校での歴史の授業などは、きちんと「国家目線ですがね」と教師が前置きをしてから、少年少女に教えるべきものだ。
    天草・島原で起こった反乱なのであるから、天草的には天草・島原の乱でよいし、また島原的には島原・天草の乱でいいのだ。
    ともかく、この二つの地を並列しておかないと、この乱の真実を捻じ曲げることになり、意味が通らなくなるだろう。
    それにしても、いくら素人の寄せ集めだとしても3万7000人という数が集ったことは異常事態だろう。
    江戸時代初期の日本の人口は不明瞭だが、江戸時代中期の日本の人口は約3000万人前後だったと言われている。
    人口比率で考えれば現在(約1億2000万人)で言えば4倍の14万人レベルであり、当時から天草・島原の人口が多かったとは思えないから、ほぼ全住民が国家(幕府)と戦った事になる。
    乱は乱でも、江戸時代後期、人口が多そうな大坂で起きた大塩平八郎の乱で蜂起した人数なんぞはたったの300人なのだ。
    このことを考えれば、この3万7000人という数の異常さが、わかることだろう。
    そうして、この3万7000人の天草・島原の百姓を相手に、幕府軍は4倍であり関が原の戦いを上回る兵力12万人を投入したのだ。
    幕府としても、もはやたかが百姓ではなく、まさに本気の大合戦であった。

    しかし、一体、天草・島原の乱は、どのようにして、このような大きな反乱となったのだろうか

    それにもまして、どのようにすれば、このような国家(幕府)体制を脅かすほどの異常な数の民衆が集い、命を賭してまで、国家と相対し戦うことができたのだろうか。

    この問いを発してこそ、はじめて天草・島原の乱の特異性が垣間見えてくることだろう。

    多くの戦や反乱が現世利益への希求であることに比して、天草・島原の乱は、紛れもなく、キリスト教を背景にしていた。

    わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。ーヨハネ福音書6章40





    つづく。

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