森井聖大ファンクラブ通信

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    天草周遊記5-天草・島原の乱と天草四郎(2)

    天草・島原の乱は、弾圧されたキリシタンたちの反乱だったのだろうか。
    もしくは、なぜ、歴史上、キリシタンの戦いとなっているのだろうか。
    もともと、天草・島原地方を治めていたのは、どちらもキリシタン大名だった。
    しかし、宇土、天草を治めていた小西行長は、関が原の戦いで西軍側につき、敗れ、斬首された。
    島原を治めていた有馬氏は、延岡(現在の宮崎県北部)藩へ国替えになった。
    その後、天草と島原を治めたのはキリシタンでない領主であり、江戸幕府の政策もあり、キリシタン迫害の後、住民全員が改宗させられていた。
    だから、一揆を起こしたのだろうか。
    いや、そうではなく、乱に至った主要因は、寛永10年から14年までの約4年間にも及ぶ飢饉だったようだ。
    そうであるのに、厳しい年貢の取立てをし続ける領主への反乱だった。
    時系列としては、こうなるだろう。
    キリシタン改宗後、飢饉があり重税がありで、生活は良くなるどころか悪くなる一方だった。
    このことで、この地の百姓たちは、皆、このように、しみじみ思うようになっていた。
    「あの頃はよかったばってんなあ」
    「ほんまごつ、キリシタンであった頃は良かったばってん」
    良い生活=キリシタン時代だった。
    ただ、これだけでは、戦という行動を起こせるはずもない。
    「ああ勉強やだな、受験やだな。小学生に戻りたいなあ」
    そう思い、映画ではあるまいし、僕らの七日間戦争よろしく、学校に立て篭もり、ペンを銃に変えて戦争をはじめる中高生はいないだろう。
    「ああ仕事やだな。税金払いたくないなあ。いっそのこと原始人になりたいなあ」
    金があれば引きこもったり、悠々自適のエコライフやペンション経営でもするのだろうが、そうでなければ飢死かホームレスが関の山で、愚痴愚痴言ったりデモったりだけで、タイムカードを捨て武器を手に持ち3万人以上集めて城に立て篭もる奴らがいるはずもない。
    仮に記憶に新しい昭和に起こった安保闘争を一揆だとすれば、ほとんどの学生も民衆も立て篭もり戦争はしなかった、連合赤軍事件で立て篭もったのはたったの5人だ。
    ここで、主要人物である天草四郎について考えてみよう。
    バラバラ日本の要が天皇だとしたら、天草・島原の乱においての要は間違いなく天草四郎だ。
    天皇は天孫降臨の名の通り高千穂に降り立ったそうだが、果たして、天草四郎は、どこから降って湧いてきたのだろうか。
    まさか、同じく、天から降って来たわけではなかろう。
    さて、天草四郎とは、一体、何者だったのだろうか。


    つづく。



    Posted by 椰子金次郎 on  | 0 comments  0 trackback

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