第十六回文学フリマin大阪 CM 作成記

    最近は一日中小説の原案や文学のことを考えている。
    そも現代において、文学が必要かどうかの問いかけからだ。
    昨今は流行り廃りの隙間もなく矢継ぎ早に企業が流行を作り出している。
    人(芸人)も物(すべて)も完全に消費生活のなかに組み込まれた。
    飽きさせない企業努力により、人々は消費するだけで満足できるようになった。
    そんな高度消費生活に入った。
    Don`t think!考えるな。
    そういう時代である。
    考えなくても十分人生は楽しめる、何の問題もない。
    日々、(特に目新しくもないモデルチェンジされただけの)新商品を買えば、満足する。
    資本主義社会のはじめには欲しいものを手にすることの喜びがあったが、今は車やスマホでみればわかるように1年おきのモデルチェンジで欲しがり買うように仕向けられるシステムが確立された。
    『何故?4号ー愛ー』にて都子義美(みやこやみ)が『プリンの味』という小説で指摘したように、多少の辛いことならば、新商品のプッチンプリンを食べたら解決する。
    これはこれで、むしろこの方が人は幸せなのかもしれない、という考えもある。
    マルクスが資本論で忠告していた消費の頭打ちをモデルチェンジというまやかしで突破した現代の資本主義の今後はさらにこのDon`t think考えるな、という流れを加速させていく。
    しかし、考えるなという流れの中で、文学は、考えることを要求する。
    時代の流れに逆らうものであるのだから、文学は、この高度資本主義、グローバリゼーションが続く限り、ポップカルチャーとして隆盛することはない。
    内乱が起き、消費どころではなくならないことには、文学はもはや存在意義すら見失う。
    もちろん日本ではの話だ、世界には消費どころではない国が山ほどあり、そういう国の文学が今は世界の主流だ。
    もう約二年前なのか、時のたつのは早いが、あの大震災があり、原発事故があり、すぐの時期はLet`t thinkの風潮も垣間見えたが、喉元過ぎればまた日本人は、Don`t thinkのなかに戻った。
    鎖国しているわけでもないから仕方ない。
    そんななかに文学フリマが開催される。
    それは年々拡大し、今度いよいよ大阪で初の開催となる。
    Don`t thinkの時代に、文学の需要が拡大していくのも面白い現象だ。
    日本がどこに行くのか文学を見ていれば自ずとわかる。
    今やポップカルチャーは消費欲を抉り出すために作りだされたものでしかないが、文学はそことは独立し独自の道を進む。
    いつの時代もそういうものだが、今の時代は乖離しているだけに、そのことが顕著だ。
    書くことは、ラノベでもエロ小説でも、それがどんなくだらないものでも、考える作業だから、みながみな考える国というのも面白いかもしれない。
    みな作家になるのだ。
    島民が全員公務員という島があるが、国民が全員作家という国になれば、面白いと思う。
    そうして、この国には、シャブよりアルコールより精神を酩酊させ陶酔させ覚醒させる文学だけがある、という話になる。
    文学フリマが、いつの日か、国民全員がブースをだす国家イベントになることを願って、今日は気まぐれに【第十六回文学フリマin大阪のCM】を作ってみた。
    完全に出鱈目だが、仕事中に思いつき、一応作らないと気がすまなくなって、作ってみた。
    色々と問題がある部分もあるので、削除依頼がきたら速やかに従う。
    第一弾とあるので、第二弾があるかといえば、そういうわけでもない。
    その程度の遊びなのだが、この遊びに寝る間も惜しんで時間を費やした。
    文学があれば、おれには、シャブはいらない。

    コメント

    僕は、自分が当たり前に自惚れていることは、みんなが自惚れていると思います。

    新商品にとびつく現代に疑問を抱くことは当たり前で、それと知りつつ、新商品にとびついている、が現代だと思います。

    考えるな!

    の時代だ、とは、肉体として見える他人の姿でしかない。自分のまわりの他人を、肉体として見ているうちは、『何故?』 言葉の本質に欠けていると僕は思います。

    考えるな!

    に納得して生きている人間なぞ、一人もいない。

    僕は二回行きましたが、それで文学フリマを僕は嫌いになったのは、他人を知らないのに知ったかぶって、『自分は他人とは違うぞ』という、自尊心だけで仲間意識を抱く派閥的臭いが嫌いだからです。細かな社交辞令が横行していたからです。僕は、芥川龍之介が日本の文学で最も共感するので、芥川龍之介は、今のところ文学フリマには否定的だろうと思いました。

    文学を売る、謙虚さ、危機感が無い。

    文学とは危険だと前から思っています。嘘を書けば、読み手を惑わす。本当を書けば、読み手を苦しめる。中間を書けば、読み手のあきらめを助ける。言葉とは凶器であり、適当に話せば信頼を失う。適当に書けば、読み手(いれば)を害する。文学とは原発に似たものである。

    君は、放射能フリマに参加しますか?

    に相似する意識で書いている。なめてはいけない。

    君が踏み出した道は恐るべき道である。

    書く者はみな、考えている。

    はまったく賛成できない。考える。とは、永遠に似た自己否定である。自己のその時おりの思いつきを否定することはしとるやろうが、自己のあり方そのものを否定することは不自然だからしない。不自然もくそも当たり前だと知り、切羽つまって光を求めて永遠に似て行き止まっている姿が、考える姿であって、

    答えはある

    と気楽でいる内は、そも考えが足りない。根本的に中途半端。金を稼ぐ素人ならよいですが、金すら稼げないかもしれないプロは、もっと考えよ。

    自己を否定せよ。不幸な自分、幸せな自分を、永遠を頼りに否定せよ。これが『何故?』であり、限りなくみずみずしい姿である。他者のみ否定する新しさを騙っていても、結局、呼び覚ますものは無い。僕の行った時の文学フリマは嫌いです。自己否定のない社交辞令ばかりで、僕の仲間がいなかった。森井聖大が文学フリマを変えるなら、あの開幕挨拶の権利を勝ち取り、マイクで、本音をぶちまけて欲しい。

    Re: タイトルなし

    僕はこう思うんです。
    それが嫌なら変えたらいい、と。
    前回の『NAZE NEWS』のインタビュー対談で語り合ったでしょ。
    『何故?第二章』は革命だと。
    皆がそうでも、自分までそうである必要はないのだから、僕は僕の『文学』を『文学フリマ』でやる。
    ずっとではないにしても、今年はそんな気持ちでいます。
    それを誰かに押し付ける気持ちはないけど、僕は主張し続ける、ということです。
    僕はそれなりに皆を認めています、どんなラノベでも、どんな気持ちで書いていても、わざわざ出店している人たちはきっと皆孤独です。
    全て一つの『文学』であると思います。
    仲間など必要でしょうか?
    みなが書きみなが読むことを万葉集的世界というならば、それに是か非かをいう権利は誰にもないとも思います。
    てんでバラバラでもいいから、みなを認め合うことです。
    だから僕の主張も誰にも否定はできないでしょう。
    という主旨です。
    別に僕はイベントの司会者ではないので、マイクを握る必要ないのです。
    演説家でも活動家でもない。
    そんなことはくそくらえです。
    バカらしい。
    作家は読んでもらえるように書けばいいんです。
    という気概で書いていますし、これからも同じです。
    また『何故?』に集った人々は、僕が好きな人たちで、深い眼差しをもっていますので、みんなの作品も幅広く読んでもらいたいという気持ちで、ずっとやっています。
    その為には色々やります。
    それだけです。
    最終的には、楽しいから書いていると言われれば、否定できません。
    こういうやりとり一つとっても書くことは僕の人生の喜びです。
    『文学フリマ』の皆さんも、そこは共通しています。
    そういう意味では仲間です。
    自分の人格と全く同じ人なんてこの世に一人もいませんから、それだけで十分でしょう。
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