小柳日向との会合 その7 -書を捨てよ、町へ出ようー

    翌日、帰りの特急電車の中で、おれは一冊の文庫本を読んでいた。
    寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』だ。
    小倉駅から、横の座席に、ミニスカートの女が座った。
    多少気になりながらも、文庫本を読みすすめる。
    隣の女は何のつもりか、足を伸ばし、生足をこれ見よがしに見せつける。
    文庫本の向こう側で、視線の端っこで、女の生足が動く。
    それはまさしく見せつけるという表現しか見当たらない、不自然な動きだった。
    おれを足で誘惑している。

    ちょうどその時読んでいたページにはこう書いてあった。

    映画『わんぱく戦争』の中で一人の男の子がたずねる。
    「だれが大将になるの?」
    すると、他の子が毅然とこたえる。
    「ちんぽこの大きい子がなるのさ!」
    一口にいって、現代は〈足的時代〉にさしかかっている。
    それは人間の歴史が、道具を発見し、そしてそれを使いこなすことで産業を生み出してきた〈手的時代〉にとってかわるものである。
    「手は作るが、足は作らない」
    べつのことばでいえば手は、生産的だが、足は消費的である。そして、足は手よりもはるかに享楽的なイメージをもっているようである。
    足的時代のサンプルは「膝上10センチのスカートとサッカー」である。
    そこには、美しい足と強い足がある。



    おれの横には、明らかにおれに見せつけようとする足があった。
    小柳日向は強靭な足力を歩くことで見せつけはしたが、決して生足は見せなかった。
    しかし今おれの横には、一声かけなければ失礼なんじゃないかと思うほど、明らかに自慢の生足を見せつける女がいるのだ。

    だが、おれは一時の想いを口にするのを押し止まった。
    さらに読み進むと、こう書いてあったからだ。

    「タマを持ってるやつから目をはなすなよ。いつもそいつの傍にいるんだ。それが人生の目的というものだ」



    タマをもっているやつで、すぐに想起したのは、小柳日向だった。
    小柳日向はタマを持っている。
    どこまでも歩ける強靭な足と誰よりも大きなタマを持っている。
    足的時代のなか大小様々なタマを持っているやつは山ほどいるが、小柳日向の足とタマにかなうやつはいない。
    1日すごして、それだけは確信した。


    おわり。



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