マイペース・マイワールド

    心持ち喧嘩せず

    大阪文学フリマ外伝ー織田作之助を巡る冒険「今日僕らの文学の足音が少しは乱暴に高鳴っても、致し方はあるまい」ー

    4月13日、西成のビジネスホテル和香に荷物を置いて、JASONさんの案内でひとまず飛田新地へ向った。飛田新地は想像以上に店舗が多かった。はっきり数えたわけじゃないが、一列に30店くらいあるかもしれない、それが3列ある。長屋風の通りを挟むように店が向かい合い、相手をする花魁が座敷の真ん中に艶かしい衣装で鎮座し、横に呼び込みのおばちゃんが「綺麗な子ですよ、見てやってください」という中を歩きながら「ほうほう」と立ち止まると、おばちゃんは「もっと近くで見てってくんなはれ。ほんまいい子でっせ」という。商品である女性はただ座っているだけで少し微笑むのみである。その間を、女性を値踏みしながら、歩いたわけだが、これまた想像以上に綺麗な若い女性が多くて、驚嘆した。さすが15分15000円である。高級ソープと思えば、この値段もあながち高くはないだろう。ただ今回は金がないし、それよりも織田作カレーが先であるから、目の保養だけして、新世界を抜け、通天閣まで歩いた。

    通天閣


    通天閣の商店街のなかに、織田作之助の小説にでてくるような暗くじめじめした将棋倶楽部があり、繁盛していた。そして通天閣の下には、織田作之助の小説でおなじみの坂田三吉の『王将』碑があった。

    坂田三吉 王将碑

    将棋倶楽部もそうだが、織田作之助の小説や評論などにたびたび登場する坂田三吉の碑も見て、未だに織田作之助が描いた反逆の大阪人気質が根付いているのが見られて、少しばかり興奮した。
    なぜ、織田作が坂田三吉を描いたのかは、小説や評論を読めば分るが、坂田が定跡を無視して対戦相手ならず観客までをもあっと驚かす一手を打つからである。そうして坂田は当時将棋連盟から名人位を授かっていなかったのにも関わらず、自称で名人を名乗っていたというその体制を無視した言動にもある。しかし小説にも書いているが、坂田はその人々をあっと驚かす一手に固執しすぎて負けたこともしばしばで、要は勝ち負けより、「あっと驚かす。人々を楽しませる」ということの方に重きを置いたという点で、そこが戯作者を自認していた織田作之助の小説流儀と合致したのだ。記録には残らないが記憶に残るという点で、2人とも後世の現在からみて、成功しているのだから、何かと感慨深いものがある。

    『可能性の文学』という織田作之助の小説論の冒頭にも坂田三吉のことが書かれてある。

    坂田三吉が死んだ。今年の七月、享年七十七歳であった。大阪には異色ある人物は多いが、もはや坂田三吉のような風変りな人物は出ないであろう。奇行、珍癖の横紙破りが多い将棋界でも、坂田は最後の人ではあるまいか。
     坂田は無学文盲、棋譜も読めず、封じ手の字も書けず、師匠もなく、我流の一流をあみ出して、型に捉えられぬ関西将棋の中でも最も型破りの「坂田将棋」は天衣無縫の棋風として一世を風靡し、一時は大阪名人と自称したが、晩年は不遇であった。(略)昔は将棋指しには一定の収入などなく、高利貸には責められ、米を買う金もなく、賭将棋には負けて裸かになる。細君が二人の子供を連れて、母子心中の死場所を探しに行ったこともあった。この細君が後年息を引き取る時、亭主の坂田に「あんたも将棋指しなら、あんまり阿呆な将棋さしなはんなや」と言い残した。「よっしゃ、判った」と坂田は発奮して、関根名人を指込むくらいの将棋指しになり、大阪名人を自称したが、この名人自称問題がもつれて、坂田は対局を遠ざかった。が、昭和十二年、当時の花形棋師木村、花田両八段を相手に、六十八歳の坂田は十六年振りに対局をした。当時木村と花田は関根名人引退後の名人位獲得戦の首位と二位を占めていたから、この二人が坂田に負けると、名人位の鼎の軽重が問われる。それに東京棋師の面目も賭けられている、負けられぬ対局であったが、坂田にとっても十六年の沈黙の意味と「坂田将棋」の真価を世に問う、いわば坂田の生涯を賭けた一生一代の対局であった。昭和の大棋戦だと、主催者の読売新聞も宣伝した。ところが、坂田はこの対局で「阿呆な将棋をさして」負けたのである。角という大駒一枚落しても、大丈夫勝つ自信を持っていた坂田が、平手で二局とも惨敗したのである。
     坂田の名文句として伝わる言葉に「銀が泣いている」というのがある。悪手として妙な所へ打たれた銀という駒銀が、進むに進めず、引くに引かれず、ああ悪い所へ打たれたと泣いている。銀が坂田の心になって泣いている。阿呆な手をさしたという心になって泣いている――というのである。将棋盤を人生と考え、将棋の駒を心にして来た坂田らしい言葉であり、無学文盲の坂田が吐いた名文句として、後世に残るものである。この一句には坂田でなければ言えないという個性的な影像があり、そして坂田という人の一生を宿命的に象徴しているともいえよう。(略)坂田三吉が後世に残したのは、結局この「銀が泣いてる」という一句だけであった。一時は将棋盤の八十一の桝も坂田には狭すぎる、といわれるほど天衣無縫の棋力を喧伝されていた坂田も、現在の棋界の標準では、六段か七段ぐらいの棋力しかなく、天才的棋師として後世に記憶される人とも思えない。わずかに「銀が泣いてる坂田は生きてる」ということになるのだろう。しかし、私は銀が泣いたことよりも、坂田が一生一代の対局でさした「阿呆な将棋」を坂田の傑作として、永く記憶したいのである。
     (略)
     しかし、坂田の端の歩突きは、いかに阿呆な手であったにしろ、常に横紙破りの将棋をさして来た坂田の青春の手であった。一生一代の対局に二度も続けてこのような手を以て戦った坂田の自信のほどには呆れざるを得ないが、しかし、六十八歳の坂田が一生一代の対局にこの端の歩突きという棋界未曾有の新手を試してみたという青春には、一層驚かされるではないか。(略)誰もそれを実験してみたものはなかった。まして、後手で大事な対局にそれを実験してみたものは、あとにも先にも坂田三吉ただ一人であった。この手は将棋の定跡というオルソドックスに対する坂田の挑戦であった。将棋の盤面は八十一の桝という限界を持っているが、しかし、一歩の動かし方の違いは無数の変化を伴なって、その変化の可能性は、例えば一つの偶然が一人の人間の人生を変えてしまう可能性のように、無限大である。古来、無数の対局が行われたが、一つとして同じ棋譜は生れなかった。ちょうど、古来、無数の小説が書かれたが、一つとして同じ小説が書かれなかったのと同様である。しかし、この可能性に限界を与えるものがある。即ち、定跡というものであり、小説の約束というオルソドックスである。坂田三吉は定跡に挑戦することによって、将棋の可能性を拡大しようとしたのだ。(略)六十八歳の坂田が実験した端の歩突きは、善悪はべつとして、将棋の可能性の追究としては、最も飛躍していた。
    (略)
     定跡へのアンチテエゼは現在の日本の文壇では殆んど皆無にひとしい。将棋は日本だけのものだが、文学は外国にもある。しかし、日本の文学は日本の伝統的小説の定跡を最高の権威として、敢て文学の可能性を追求しようとはしない。外国の近代小説は「可能性の文学」であり、いうならば、人間の可能性を描き、同時に小説形式の可能性を追求している点で、明確に日本の伝統的小説と区別されるのだ。日本の伝統的小説は可能性を含まぬという点で、狭義の定跡であるが、外国の近代小説は無限の可能性を含んでいる故、定跡化しない。「可能性の文学」はつねに端の歩が突かれるべき可能性を含んでいるのである。



    でんでん通りを抜け、難波まで歩いた。難波の商店街のなかに、自由軒はあった。
    「おー、ここだ。織田作カレー!」
    おれのテンションはMAXだ。
    JASONに笑顔を向ける。
    「入りましょう!」
    JASONさんは特にテンションはあがっておらず、極めて冷静に「ええ」とだけ言った。

    難波 自由軒

    店内は人ごみでごった返しており、座る場所もないほどの繁盛ぶりだった。土曜日だし、この店は当時織田作がここのカレーを食べながら原稿を書いたとされているが、店構えは多分ほとんど変わっていないのだろうが、今や観光名所なのである。通称・織田作カレーは、店のメニューには『名物カレー』と表記してある。名物カレーを頼む。忙しいからだろう、たかがカレーでもちょっと時間がかかり、しばし店内を見渡すと、厨房の上にまるで神棚のように、あの「虎は死んで皮をのこす。織田作死んでカレーライスをのこす」という織田作の写真入りの額が飾られている。しかしカレーライスのみならず、坂田三吉、あるいは反逆の徒としての文学をも織田作はのこしている。自由軒は織田作により守られ、大阪は織田作により守られている。
    「お待たせしました」
    いよいよ出てきた、まさに織田作カレーだ。
    はじめからカレーとご飯が混ぜられており、その真ん中に生卵がのっている。さらに卵をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、ひとまず食べる。
    「うむ」
    横のJASONさんをふと見ると、ソースをかけている。なるほど、と思い、おれもソースをかける。
    「うむ」
    ソースをかけたら一層美味しい。見た目の悪さからあまり味に期待していなかったが、ともかく美味しかった。
    満足感を得、店を出る。
    それから串カツ屋に入り、鯨ナイトまで飲むことにした。
    「墓参りは最終日に行きましょう」

    大阪滞在最終日、4月15日、墓参りに行った。
    西成のビジネスホテル新ばしから歩いて向っていたが、天王寺動物園を少し過ぎたあたりで、もう面倒くさくなった。このまま歩けば30分以上はかかるだろう。すたすたと前を歩くJASONさんに後ろから声をかけ、「タクシーで行きますか?」と恐る恐る伺うと、すぐにJASONさんはタクシーを止めてくれた。運転手さんに「りょうごん寺に行ってくれ」と言うと、運転手は知らないようで、「それどこでっか?」と言う。持参した地図を見せる。「ここです。この高津学園の上の楞厳寺です」と告げる。運転手はしばしおれが持参した地図をみて、自らが持ち歩いているゼンリンの地図を開き、「しかし難しい字書きますな。これで、りょうごん寺ですか。はじめて行きますわ」とタクシーを発進させた。
    「ここですわ」
    10分もしないうちに着いた。1200円くらいだった。

    楞厳寺

    いよいよ織田作の墓参りだ。太宰治の墓も参ったし、これで織田作の墓も参ることができた。あとは坂口安吾だけだ。と思いながら、門をくぐる。

    楞厳寺内

    入ってすぐ左に、織田作の墓があった。ひとまず「文学をよろしく」と祈る。そのあと『何故?』を供える。

    織田作の墓に『何故?』

    これで、織田作をめぐる旅は終わった。
    今回の目的のもう一つは、織田作との邂逅であったから、目的は果たした。
    その後、タクシーで帰るのも勿体無いし、それほど距離もないことを確認したので、JASONさんと難波まで歩くことにした。
    だが、JASONさんは猪突猛進型の人だということを忘れていた。あるいは戦士であることを忘れていた。JASONさんは道がある限りどこまでも真っ直ぐ歩く人だったのだ。おれは道を知っているのだろうと思っていたのだが、実はただ戦士なのであって、道なりに歩いていただけだった為、難波を通り過ぎ、またもや天王寺まで引き返してしまい、結局1時間以上かかって難波に到着した。
    行きでタクシーを使ったはいいが、結局かなり歩くことになったのだった。
    「疲れました」とおれがいうと、JASONさんは「まだ歩けます」と言った。

    最後に織田作の『土足のままの文学』からこの最後の文章を引用し、織田作へ敬意を表しつつ、この冒険の終わりに代える。

    日本の習慣では、土足のままで家の中へはいらない。だから、文学も土足のまま人生の中へ踏み込んで行くような作品がない。きちんと下駄をぬぎ、文壇進歩党の代弁者である批評家から、下足札を貰って上るような作品しかない。「ファビアン」や「ユリシーズ」は土足のままの文学だ。僕は土足のままとまで行かなくても、せめて下足番から下駄を……と言われた時、いや僕ははじめからはだしでして……と言えるような作品を書きたいと思う。
     僕はこれからはもう天邪鬼になって、新人がどれだけ巧い作品を書いても、感心しないことにする。泥だらけの靴やちびった下駄のままで書きまくった小説でなければもう感心しない。きちんと履物をそろえて書斎の中に端坐し、さて机の上の塵を払ってから、書き出したような作品に、もはや何の魅力があろう。
     これまで、日本の文学は、俳句的な写実と、短歌的な抒情より一歩も出なかった。つまりは、もののあわれだ。「ファビアン」や「ユリシーズ」はもののあわれではない。もののあわれへのノスタルジアや、いわゆる心境小説としての私小説へのノスタルジアに憧れている限り文壇進歩党ははびこるばかりである。
    (略)
     土足のままといっても、しかし、何でもかでも横紙を破り、破目を外し、メチャクチャになれというわけではない。例えばモンテエニュ、彼が自分を語ろうとして自分の内部へはいって行った時、土足のままだったが、足音はしずかだった。ただ僕らはかつて僕らが忘れていた「人間」を、僕らの文学の中へ呼び戻すために、まずモンテエニュあたりから勉強のし直しをはじめるとしても、しかし、今日僕らの文学の足音が少しは乱暴に高鳴っても、致し方はあるまい――ということだけは、今ここで言い切れると思う。

    Posted by 森井聖大 on  | 0 comments  0 trackback

    Leave a reply






    管理者にだけ表示を許可する

    Trackbacks

    trackbackURL:http://saydie.jp/tb.php/679-b90c1339
    該当の記事は見つかりませんでした。