ポエイチ前の鬱々とした夜に

    日付が変わり、いよいよ本日6月7日と8日の2日間、第三回福岡ポエイチが開催される。
    色々な縁が重なり福岡ポエイチには第一回から参加させてもらっている。
    文学フリマは第九回からの参加であるので、この点において、福岡ポエイチへの思い入れの方が若干強い気がする。
    私は2日目、6月8日に参加することになっている。
    『ざ☆ぶんがくまん(と愉快な仲間たち)』というサークル名で出展する予定でいる。

    これが、ざ☆ぶんがくまん、である。
    snap_nazehenshubu_201313234214.jpg

    愉快な仲間たちには、ブンガクちゃん、と。
    bungakuwoman.jpg

    あと、文キチじいちゃん、がいる。
    bunnkiti.jpg

    全部、私が書いた絵である。
    しかし私は何をしているのだろう?
    こういう即売会の前になると、何なのかわからぬが、いつも物思いに沈んでしまう。
    ぶんがくまんとかブンガクちゃんとか文キチじいちゃんとか一体何のことだろうか?
    文学フリマといい福岡ポエイチといい、そのような文芸即売会に参加する意義はどこにあるのか?
    などと考えてしまうのである。
    意義というと何か一般論的な感じもするので、いうなれば私個人としての自問自答なのであるが、私は何ゆえ、これらの即売会にこだわるのか、このことが私自身不思議でしかたないのである。
    このことと、文学とは何かとか、世間一般へのアプローチなどは関連しているのだが、たとえばおよそ70年も前に横光利一や久米正雄、小林秀雄などが語っていたことなどを思い出しつつ、更にまた物思いに沈む。
    商業主義により打開したものと思われていた文学の復興(これはもともとどこに栄華の時代があったのか定かではなく甚だ疑問ではあるのだが、日本文学においては文学の復興という概念は常に付きまとい、物思う作家の常套句なのだが)は、結局は70年も前に文芸家諸氏が恐れていた低俗化(だけ)の方向へ傾き読者を獲得した結果に終わったのではないか、しかしその成功はやはり本末転倒であり、その低俗性、空虚な言辞にほとほと愛想を尽かされ、誰も文学に見向きもしなくなったのではないか。
    ある種の漫画家や映画監督のシリアスさとは何であろうか。
    文学はもはやただの面白おかしい物語であるかのような誤解を与えてしまったのではないか。
    物語だけあり思想がないものばかり溢れてしまったなかで、心ある人生の迷い人である現代人である私たちは、古典と言われるもののなかにしか読む本がなくなったのではなかったか。
    このような物思いのなかで、明日、ポエイチに行くのである。
    鬱々としている場合ではない。
    「私は、ポエイチに行く。」
    しかし私は鬱々としているのだ。
    ポエイチとは何であるか?
    会場である冷泉荘は古びた小汚い薄汚れた今となってはもうベージュか灰色か何色だったのかの区別もできないようなビルである。
    酔っ払いが立ちションしに来るか、はたまた野良猫しか寄って来ないような、裏通りの小汚いビルなのだ。

    EC20120612202740.jpeg

    この一階に鎮座し、薄汚れたコンクリートの壁に四方を取り囲まれたなか、私は日がな一日、ほとんど来ぬ客を、まだ見ぬ読者を、じっと待っている。
    このような私とは一体何なのだろうか?
    ここに文学があると感覚では感じられるが、私の拙い語彙では言葉に変換できないでいる。
    その役目は、私ではなく、〈きみ〉の役目ではなかろうか。
    もはや私には私がわからない。
    私が何に見えるか?
    客観的でクールな意見を聞きたい。
    私は、薄汚れたビルのなかのオブジェと化して、ただ〈きみ〉を待っている。
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