森井聖大ファンクラブ通信

    マイペース・マイワールド

    原一男の映画『全身小説家』を観て~井上光晴『文学伝習所』と『文学フリマ』について我思う~

    原一男監督作品『全身小説家』を観た。
    前に原監督(と書けば何だか巨人の監督みたいだが)の代表作(になるのか?)奥崎謙三を描いた『ゆきゆきて神軍』を観ていたが、次に、気になっていたのが、井上光晴を描いた『全身小説家』だった。
    タイトルの全身小説家とは、埴谷雄高が井上光晴をそう呼んでいたからとのことだ。
    前から観たいと思っていたのだが、DVDは中古でも一万円前後と高くてなかなか手がだせず、ビデオで探していたところ2000円でようやく見つけて購入した。
    映画については、原一男自身が語っている映像がyoutubeにある。



    40分以上ある動画だが、私は二回ほど見た。
    本当は一度見て、それから『全身小説家』も観てほしいけど、かいつまんで説明すると。
    そもそも文学伝習所へ通う知り合いを通し井上光晴が癌になったことを知った原監督(巨人ではない)は、ちょうどその頃ドキュメンタリー映画を作りながらもドキュメンタリーといえども編集が入るから正直なところどうしたって虚構(フィクション)になるという壁にぶちあたっており、つまりはフィクションとノンフィクションについて考えていたらしいのだ。
    そこで余命いくばくもないが精力的に虚構を描き語る作家・井上光晴を通し、虚構について改めて考えてみよう、とのはじまりであったらしい。
    井上光晴の虚構への徹底ぶりは、小説のなかだけでなく、自身の年譜や自伝までにおよんでおり、一般的には「嘘」をつき続けてきたのである。
    埴谷はそんな井上を「うそつきみっちゃんが大人になって、堂々と嘘をつける小説家になった」と笑いながら言う。
    映画に関しては、映画や原監督(もう言わなくてもわかるだろう野球ではない)自身による動画を参照してもらうとして、映画の大半を占めていた井上光晴主催の『文学伝習所』について思うところあったので、そこを今回色々と書きたいと思う。
    井上光晴が文学伝習所を始めたのは、1977年8月だった。
    1977年はちょうど中上健次が『枯木灘』を出版した年だ。
    前年1976年村上龍が『限りなく透明に近いブルー』でデビューし、1979年に村上春樹が『風の歌を聴け』でデビューする。
    そのような年に、文学伝習所を始めたのである。
    こちらのサイトに、生徒だった女性(真砂友子さん)の文章が載っている。

    私を変えた文学伝習所

    1997年発行の雑誌・鉛筆武芸帳no.7にこの文章は掲載されたらしい。
    鉛筆武芸帳という雑誌については検索しただけではよくわからないが、どうやら今はもう刊行されていないらしく、サイトを見る限りでは1994年に発刊し11号で終わったようだ。

    鉛筆武芸帳HP

    ともかく、この真砂友子さんの文章から、多少なりとも当時の様子を窺い知ることができる。
    彼女は三期生とのことで、同期には70名もの人がいたらしい。
    文学伝習所とは、六日間の講義と演習であったらしい。
    この講義の様子もまたyoutubeに収められているので、是非一度は見てほしい。



    井上光晴は、新聞記事で生徒を募集したらしく、謳い文句は、こうであったとのこと。

    いま日本民族は、人間として内部から崩壊しようとしています。他者の自由を喜び、不幸を感じとる心。それこそ文学の根底における優しさでしょう。文学とは何か。その問いを手放さず、問うて問うて問いつくす場所。文学伝習所を創立する意味はそこにあります。



    動画ではあるが、この講義内容を聞いていると、よくある文章講座ではなく、また学問としての文学でもなく、文学精神や人の生き様を伝える場所であったことが窺える。
    こちらのサイト天使の微笑みのなかで、三島由紀夫(楯の会)と井上光晴(文学伝習所)について論じている文章がある。

    随筆あれこれー井上光晴の死

    サイトを見る限りではもうお亡くなりになっているようだが、函館在住の作家でありタウン誌「街」の編集長であった木下順一が、タウン誌「街」1997年7月号に掲載した一文らしい。
    文学伝習所が何なのかについて書かれている箇所を引用したい。

     

    井上さんは自分の精神のバトンを渡しにきたのである。それは佐世保から始まった文学伝習所である。井上さんは、文芸誌の編集者も探せない、地方にいるかもしれない優れた書き手を探しにきたのでもなければ、教育をしに来たのでもない。ものを書く本質とは自己革命である。それを実践を以て解きに来たのである。
     現実はかんたんに変らない。それを変えるには、自己革命しかない。ものを書くということは現実では不可能な関係を言葉で変えることだ。まず白い紙でやってみる。何度もやっているうちに、その本人のものの見方が変ってくる。こうして視点が変ると、当然、意識革命が起こる。
     井上さんは小説を書くように云いに来たのではない。意識を変えるように云いに来たのである。文学とはそういうことだ。生き方の問題なのである。文学の質が低下し、低俗な文学が氾濫している悪い時代のなかで、いかにして良い文学をみつけるか、それが先決で、井上さんはそれを云いに来たのである。強烈な個性と敏捷な肉体とで、それを解きに来たのである。良い文学をみつけるとは、想像力の問題である。その失われつつある想像力を刺激しにきたのである。



    井上光晴が何を思い、この活動を癌になりながらも続けたのか、想像するしかない。
    私は無論のこと、当時を知っている他の人にもきっと間違いもあるだろう。
    だが、私が思うことと、当時を知る人が書いていることと、井上光晴が語る内容は、それほど違っていないので、理解はしているつもりだ。
    埴谷雄高は「そんな暇があるなら書くべきだ」と伝習所を嫌っていたらしいが、井上には文学への(人間への)危機感や不信感があったのかもしれない。
    埴谷にはなかったのだろう。
    文学への危機感はそのまま作家である自身の危機感だろうと推測できる。
    それを放っておいて呑気に書いている場合ではなかったのだろう。
    無論、推測だ。
    他の文学界隈の作家たちも概ね文学伝習所への評価は批判的であったらしい。
    ネット上での文学伝習所及び井上光晴を著した文章は少ないが、そんな中で私は『島貫真』さんのサイトを見つけた。

    JUNKな文学

    この中の評論コーナーでしっかりとした井上光晴論を展開している。

    評論の本棚

    作者自身も文学伝習所へ2度ほど行ったらしく、当時の様子も窺えるので、こちらを引用したい。

     井上光晴が「文学伝習所」という奇妙な名前のイベントを全国的に展開し、一年のうちの何十日もそのために時間を割き疲労や病いをおしてまで敢て関わりを持ち続けたことはよく知られている。筆者自身は二度ほど参加したことがあるだけなので、その具体的な活動の実際をここで紹介することはできないが、一つだけ気になったことがあるので、少し書いておきたい。そしてそれはおそらく、井上光晴の小説そのものにも関わってくる面があるように思う。
     私たち素人、ひらたくいって井上光晴の弟子やファンたちが、多く「伝習」の側にあるとするなら、井上光晴と交際のあった文学者たちは、とりあえず「文学」の側に立っているといえるだろうか。そちら(「文学」)の側から、この「文学伝習」はどのように捉えられていたか。

     <たぶん彼は文学の伝習不能なるゆえんを伝習しようとしたのだろう。<文学VS伝習>であろう。文学と伝習のはざまにある黒暗暗たる部分を透視してみせる、そんなパフォーマンスをなぜやりたかったのか。それはまあ存在のよびごえ、雀百まで踊り忘れぬ大道芸の延長と見たがよかろう。では伝習所で文学を学ぶつもりだったのに、井上光晴という男を拝観させられただけで終わった伝習生たちはペテンに会ったのだろうか。だとしてもうれしいペテンとおもいたまえ。きみたちは日本プロレタリアの最後の章魚踊りを見たのだ>        谷川雁「プロレタリアの葬列の末尾」

     <そしてふたたび無垢で屈折のない架空の視えない党を、イメージでこしらえていったのではないかとおもう。どうしてまたふたたび無垢で屈折のない民衆の党の概念を成り立たせてしまうのか、それはすでに歴史から退場してゆくほかにどんな道ものこされていないことは、私達が千中戦後の経験にtえらして疑問の余地がないほどはっきりさせたことだ。否定や拒絶をふくまない体制も反体制の(ママ)世界史の現在には存在しえない。地の底に働く炭坑労働者や非差別の民衆を「辺境」の空間に肯定的に描くだけのところに、なにものこされていない。井上光晴は、戦中の無垢の純粋な献身の体験を、そのまま不変の小さな絶対者にみてしまうことを繰り返そうとしている。それは弱点として肯定的なだけで、現在や未来に耐えるものとはおもえない。こえがかれに対する批評だった。>
               吉本隆明「井上光晴の声」



    文学界隈からの評価はよくない。
    けれども、直に井上から文学を伝習された生徒の声はどうか。
    再び、真砂さんの文章に戻ると、こう書いている。

     一日の講座が終ると懇親会。「ふじ乃」で、鰯の刺身に焼酎、氏の練達のサービス芸にもりあがる。

     各地の伝習所が十四ヶ所に根付き、同人誌も次々に誕生。札幌、函館、山形、新潟、東京、群馬、徳島、筑豊、佐賀、佐世保など。井上氏は声がかかるとどの合評会にも行った。

     私は最初の同人誌「群れ」に加った。作品は選考せず総て載せることは氏の意向であった。



    井上光晴は死去する1992年まで文学伝習所を続けた。
    原監督(もう言わない)の『全身小説家』の完成は、井上光晴の死後、1994年だった。
    ビデオパッケージのキャッチコピーにはこう書いている。

    嘘もつき終わりましたので……じゃあ



    そこで、私はふと思う。
    井上は、文学伝習所の生徒に対して、下の懇親会の動画をみてもらえばわかるが、「プロもアマチュアも関係ない。文学は誰でもできる」と豪語している。



    生徒たちは頷いている。
    また先のサイトの評論で、木下順一はこう書いている。

     

    井上光晴も、「文学伝習所」を作ったことで大変な誤解を受けてきた。ある文壇の評論家は、伝習所の生徒から文壇に登場した作家は少ない、殆どいない、ということで伝習所に疑義を投げかけているが、これは見当違いもはなはだしい。
     「楯の会」の意義が短い年月で判らないように、「文学伝習所」の意義も十年先、二十年先でないとその本当の姿は判らないだろう。



    あれから、もう20年以上の月日が流れた。
    結果をだすべき時期になっている。
    その間に、高橋源一郎がポップ文学として文学普及活動をし、大塚英志が文学の商業的な現状打破の為と文学フリマという独立国家を画策し、多くの若者が呼応した。
    文学伝習所の存在があったこと、井上光晴の活動が、このことと無縁ではないだろう。
    文学伝習所の人たちは、まだ文学を続けているのだろうか。
    今もなお各地の同人雑誌で書き続けているのだろうか。
    彼らは文学フリマをどう見ているのだろう。
    「プロもアマも関係ない。誰にでも文学は出来る。それぞれの文学を発表してください」
    と、現在井上光晴の激と同じような主張をし、文学伝習所が全国14箇所に展開していったように、東京、大阪、来春には金沢で開催されるという文学フリマの試みをどういう目で見ているのだろうか。
    しかしながら、出てきた言葉は同じように聞こえても、文学伝習所と文学フリマには根本的な相違点がある。
    文学伝習所ははじめに書くことではなく読むことを教え、「文学」精神を教えた。
    だが、文学フリマは「文学」の精神を考えることなく、ただ書くことを文学と呼んでいる。
    しかし、まだ私がいる。
    当時の文学伝習所の皆さんも、文学フリマに来てほしい。
    そうでなければ、我々は何度も同じ事を繰り返し、文学フリマも井上光晴の命を賭した活動も、全て無駄になるだろう。
    文学をもって、いくつになっても遊ぼう。
    寸断されていない。
    私が、いる。
    みなで遊ぼう。

    文学フリマを救う会 ざ☆ぶんがくまん(こと、森井聖大)

    Category : 読書・映画
    Posted by 椰子金次郎 on  | 2 comments  0 trackback

    2 Comments

    にぎにぎ says..."嘘が嘘をつく"
    原一男監督作品『全身小説家』を、
    僕も今日観ました。

    口角泡を飛ばす。
    真剣に向き合った。
    人のこころに。


    金曜の夜は、
    西山君と話しました。
    2014.11.03 22:51 | URL | #9L.cY0cg [edit]
    森井聖大 says..."Re: 嘘が嘘をつく"
    にぎにぎさんへ

    全身小説家、よかったでしょう。
    井上光晴を中心に文学伝習所の人々、埴谷雄高や瀬戸内寂聴、あと手術シーンなど、他にない映画だと思います。

    原一男監督はフィクションとして奇妙な恋愛模様を描きましたが、これもまたフィクションだと思えばありかな、と。

    にしやまくんも頑張っているようで、にぎにぎさんのブログでライブ時の雄姿を拝見しましたよ。
    大分合同新聞優秀賞も見ましたよ。

    2014.11.05 17:22 | URL | #- [edit]

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