マイペース・マイワールド

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    有吉佐和子『恍惚の人』の感想

    『恍惚の人』を読み終えた。
    これが1972年の小説だということに驚く。
    古びておらず現代的だ。
    今でこそ、介護だ、ホームヘルパーだ、と皆知っている。
    介護は求人は多いけど給料安いしなあ、ということまで知っている。
    それもここ数年で、ようやく世間の関心事になったと思っていたが、もう40年以上も前から誰もが感じていたからこそ、200万部近いベストセラーになったのだろう。
    発刊の際は、『純文学書き下ろし小説』と銘打っているが、純文学ではなかった。
    私はジャンルなどどうでもいいと思っているが、しいて言えば、社会派の大衆小説だ。
    もっと言えば、登場人物にも特に性格はなく(性格を有しているのは隣家の門谷家の嫁と姑、あとは夫の妹の京子くらいで)典型を描いているから、一冊の臨床例のようだ。
    その分、すらすらと読めるし、同じ問題を抱えている人には身に迫る。
    作者に笑いのセンスもあるから、重いテーマではあるが、時に微笑みながら、面白く読める。
    テレビや映画にも数回なっているとのことだ。
    それも頷ける。
    三人称で描かれ、まるでカメラの切り替えのようにそれぞれの登場人物の日常を描写する、どことなく脚本のような小説でもあった。

    簡単に、あらすじを書くと。
    一戸建てに住む中流階級の家族がいる。
    共稼ぎの中年夫婦に、一人っ子である高校生の長男、離れに夫の両親が暮らしている。
    はじめに姑が死ぬ、その後、離れで暮らしていたからよくわからなかったが舅が認知症であること(当時の言葉で老人性痴呆、所謂呆けていること)に気づき、物語ははじまる。
    だんだん舅の認知症が進行し、てんやわんやの中、うんこを畳に塗りたくり食べるまでになる。
    そのタイミングで、ちょうど良く舅が死ぬことにより、小説はハッピーエンドで終わる。

    貫くテーマは、介護であり、死よりも長生きすることの方が恐ろしい、だ。
    自分もいつかこうなるという恐怖感から、自分の老後に引き寄せて考えた末、なおざりにできず、舅の介護を使命として遂行する嫁(昭子)のたくましさ。
    しかし、どこか嘘くさい。
    その使命感も、舅がうんこを食べるだけならまだしも家中に塗りたくることが続き、毎日家中のうんこ処理に追われるようになれば、自ずと心折れていたはずだ。
    だから、作者(有吉佐和子)は、そこで、舅を殺した。
    このあたりが、この小説の弱点であり、文学賞から除外された要因だろう。
    文学的思考でもって(社会問題ではなく小説内の)問題を解決することから(安易に殺すことで)逃避している。
    これでは問題提起としての社会派小説としては成立しても、文学として成立しない。
    (余談だが、伊藤なむあひ『鏡子ちゃんに、美しい世界』で作者自身が(自らの文学的問題を解決すべき書き始めたにも関わらず)最後の最後に逃避し問題を先送りしたことを思い出す。)
    小説の舅は死んだ。
    だが、現実には、次から次に、認知症老人は増え続けている。
    だからといって、現実はいつまでもハッピーにならないかというと、そういうわけでもない。
    この問題の続きは、本から目をあげた、この40年後の現実だ。
    幸福なことに、ここ10年で(まだ足りないとしても)社会制度としての介護は充実してきている。
    私なども介護保険制度の恩恵を預かっているが、他の人もそうであろう、小説の家族よりも幾分マシになっている。
    小説中でも、折に触れ、家電製品などの文明の力を褒め称える場面がある。
    はっきり言及してはいないが、深読みすれば、福祉としての社会的介護支援を、家電を暗喩として、文明の一要素として提案しているようにも読み取れる。
    たとえ1970年代に書かれているとしても、現代でも高齢化による問題は同じだし、ますます増大している。
    21世紀初頭に生きながら、認知症症状を露見しはじめた老人である父母を抱え、うろたえている家族が読めば、気が楽になるだろう。

    小説中でも書かれているが、認知症とは精神病の範疇だ。
    診断も精神科で行う。
    ここからは仮説なのだが、根底にあるのは、死への不安と恐怖だ。
    発症の契機は、老いからの死の自覚だ。
    精神病は基本逃避だ。
    生命を維持するため、精神(脳細胞及び神経伝達物質)の能動的な変化を、オートマティックに行う。
    そういう、人間が有す能力であり、原始からの知恵だ。
    一番わかりやすい例は、うつ病はうつ病真っ只中より、治りかけの時に自殺率があがる。
    「徒に薬を投与するなかれ、きみはまだ治るには早い。」
    「あるいは治る前に、環境を変えていなければいけない。」
    さて、認知症と他の精神病との違いは、何であるか。
    環境ではなく、細胞レベルの生物学的身体問題だ。
    目前に迫った避けられない死だ。
    なので、認知症に限らず老年期に入ったなら、本人の心構えも必要だが、介護の課題としても、生きやすさだけでなく、死にやすさの方も考えてみた方がいい。
    よく刑務所の死刑囚を宗教家が訪ねていく場面がある。
    私の推論による推計に寄れば、宗教観が希薄な国の老人に認知症が多い。
    宗教により死の恐怖感の軽減があれば、多少老人の認知症は減少するはずだ。
    若年性認知症(アルツハイマー病)に関しては、また違う問題だろう。
    このへんはまだ結論は出せない。
    今、私が思うことは、ならば文学は何ができるだろうか、ということだ。
    埴谷雄高に言わせれば、文学は宗教にもならないといけないのだ、と言う。
    神でも仏でもなく、文学だ。
    さすがに、まだ『恍惚の人』だけでは何もわからない。
    もう少し認知症を探っていくことで、もしかしたら人間精神へのもう少し深い理解が得られるかもしれない。





    Category : 読書・映画
    Posted by 森井聖大 on  | 0 comments  0 trackback

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