マイペース・マイワールド

    金持ち喧嘩せず

    森巣博『神はダイスを遊ばない』を読んでー常打ち賭人と常書き作家ー

    九州芸術祭文学賞に送ろうと思っていて『田中の夢』を少し書き足したのだが、人間とは自由な生き物だから、パチンコと競輪にはまってしまい、勝ったり負けたり、結局負けたりしていたら、もう全くやる気がなくなってしまった。もう今年は送らない。来年も送らないだろう。まあ去年も送っていない。所詮そんなもんだ。阿佐田哲也が言っていたように「ギャンブルで生活できなかったから作家をやっているだけ」という言葉が身にしみる。しかし負けがこむと鬱になる。死にたくなる。辛い辛い人生だ。不貞寝する。時間の許す限り寝る。起き上がる気力もないから布団のなかで本を読む。今は森巣博の『神はダイスを遊ばない』を読んでいるところだ。

    森巣博・略歴
    1948年生まれ。雑誌編集者、記者を経て、現在ギャンブラー、作家。75年よりロンドンでカジノ賭博の「常打ち賭人」を目指す。81年、オーストラリア移住後、豪州を本拠地として世界中の賭場を攻める国際博奕打ち。



    うむうむ。このおっさんは中々やるおっさんだ。負けすぎて鬱々としている私にギャンブルへの示唆を与えてくれる。私は長年「プロ」を目指していたが、森巣曰く「プロ」と「常打ち賭人」は似ているようで、まるで別物だ。この部分だけ見ても、長年わだかまっていたことが解消された。所謂カジノにもプロはいる。だが、それはハリウッド映画に出てくるような派手やかな人間ではなく、いわば競輪場や1パチにいるような汚いジャンパーを着たみすぼらしいおっさんだ。何故そうなるのか。彼らはそれで生活するから「負けない」賭け方しかできない。挑戦できないから自ずとみみっちくなる。一万円持って小さく賭け二万円になれば帰る。それを毎日繰り返す。ギャンブルの醍醐味である一攫千金、大逆転などと無縁の存在が「プロ」である。逆に、同じようにカジノに毎日出入りしているが、他に生業を持つのが「常打ち賭人」である。こちらは負けることを恐れない。挑戦できる。大きく賭けられる。すると大きく勝つ。カジノでVIPルームにいるのは「プロ」ではなく「常打ち賭人」である。これは目から鱗な事実であった。文学にも他のあらゆることにも通底する真理がある。「プロ」は失敗できないから、自ずと卑近になる。だが私たちはいつでも失敗できる。いくら負けてもいい。明日勝てばいい。いくら駄作を書いてもいい。はじめから読者などいないのだ。いくらでも挑戦できる。負け続けても、明日、大勝負を当てればいい。一気に今までの負けを取り返すように一作名作を書けばいい。シリアス顔で「文学」とか語る必要もない。毎日楽しく笑ってすごす。九度負けても一度勝てばいいのだ。あいつらはシリアスを善と勘違いし「楽しそうな奴等はみなシャブ中」とでも思っているのだ。しかし、よく考えてみたまへ。満員電車に乗って会社に行くことを健全な生活と思う奴等に文学などできるはずもない。ギャンブルも借金もせず酒も飲まず煙草も吸わず毛虱も移されない生活を良しとする奴等に文学のブの字も描けるはずがない。そもそも魂の問題がない個を放り出した機械人間に何を語る資格があるだろう。
    私は、ギャンブルで勝ち、たまに大金を掴み、楽しくすごすことにした。文学とはギャンブルであり、ギャンブルとは革命思想である。ドストエフスキーを例に出すまでもない。私は、常打ち賭人としてギャンブルしながら、常書き作家として文学をする、そう決めた。





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    Category : 読書・映画
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