マイペース・マイワールド

    心持ち喧嘩せず

    日本最後の純粋なひきこもりの誇り

    今日は熊本市内で月2回ほど開催されているひきこもりの自助グループに参加してきた。
    主催者のしんさんとは某SNSで数年来の交流があったこともあり、せっかく熊本に来たのだから挨拶がてら会っておきたい、と思った次第だ。
    会場の茶室に着くと、7名ほどの男性たちが畳の部屋で円になっている。
    各々の近況を順番に語り合うという形式のもので、気を張らず、ゆったりとした場の雰囲気のなか、時に笑いも起こり、楽しい会話を重ねていく。
    イメージとは違い、ひきこもりといっても、普通の感覚、普通の身なりの方たちばかりで、8名のなかで、一番思想も容貌も病的に見えるのは、どう見ても私であった。
    はじめから決めていた通り、招き入れてくれた主催者の方の心情を思い、出しゃばらず、なるべく静かに皆さんの話を聞くように努めた。
    色々な人生があると思いたかったが、そうでもない印象であった。
    実際、精神的な病を抱えひきこもっている人よりも、私の方が色々ある気がしたのである。
    その理由も色々あるのだが、一番の理由としては、やはり彼らはひきこもりというだけでなく、それよりも精神病者というカテゴライズの方を自認している印象であった。
    ひきこもりの原因には無論精神病もあるだろうが、思想的なものもあるのではないか。
    しかしながら、皆がみな、ひきこもれば精神病あるいは発達障害とカテゴライズされている。
    いつからか、ひきこもりという得体の知れない者から、何らかの精神病であるとし社会的に認知されている。
    日本に思想はなく、あるのはただ病である、という現実を改めて垣間見た気がした。
    反面、私は、原因も解決策もなく、誰にもわからない病でもない何らかのモノを抱えている。
    そうして、やはり主催者のしんさんも、良くも悪くも純粋なひきこもりでありたいと願い、お仕着せのカテゴライズを拒み続けてきた得体の知れない人であった。
    だからこそ、数年来、ずっと気になっていたのだろう、と今日会って改めて気づいた。
    明日どうなっているかは、今日何を思ったかだ。
    ひきこもりという人生の1ページをただ病気であったとするのでは悲しい。
    ひきこもりは病からではなく自身の能動的な選択であった、噓でもいい、そんな自分だけの誇りを持って生きていって欲しい。
    本日は、ありがとう。
    とても居心地の良い場所だった。
    日時があえば、是非また行きたい。
    それでは、また会う日まで。

    Posted by 森井聖大 on  | 0 comments  0 trackback

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